■無数のガラス細工を砕いて箱につめ、床にぶちまけた時に暴れる乱反射し屈折する光。過剰に流し込まれた混乱の描写は最初からクライマックス。死を渇望しながら死に切れず、死と生のはざまにうつろう娘に再会したいというただその思いだけを活力として生きながらえてきた芸術作家の父親と、性的アイデンティティのあやふやな娘の主治医の道行きは現実と仮想がないまぜとなった混沌の中を行く。生と死、男と女、現実と仮想の境が曖昧で何もかもが溶け合っていく。
医療的描写に比較的冷静に言葉を費やしている割に、肝心の現実崩壊のメカニズムについての描写は薄く怪しい上にそれを登場人物達があっさり受け入れるところは疑問があるものの、そこに目をつぶれば混乱した世界描写に入り込める。ただ、この混沌としたハイテンションはさすがに持続しない。次第次第にテンションを落とし、なだらかに着地点へと向かう。
だから冒頭のカタストロフ的な描写はカタルシスとして描かれているわけではない。現実と仮想、彼と我の境が曖昧になっていく世界が訪れる春雷のような先触れとして前置される。
ただ、出だしが荒々しいだけに終盤がおとなしく収束してしまうのは尻すぼみの感もある。『電脳コイル』のようにARが当たり前となり、彼我境界の曖昧な〈チルドレン〉の描写も既視感は拭えない。最後に訪れる〈理沙〉の解放はニューロマンサーのラストにあるようなネットワークにある〈何か〉の解放を連想させなくもないが、しかし、冒頭に溢れた混乱の再来はなく物足りなくもない。むしろ「共有される現実感」というものがあやふやになっている作中状況の中では珍しくもないものとしてあっさりと片付けられてしまう。
最後まで読んで面白く感じたのは登場人物達の人間関係の狭さで、その感覚は夢の中に登場した知り合いが現実とは違うロールを与えられているのに似ている。だからもしかしたらこの作品全体が誰かに夢見られている世界、と強引に解釈できなくもないだろう。ただ、その夢解きはなされないまま静かに終わる。その余韻は余韻として受け取れるにしても、やはり冒頭の荒々しい混沌を懐かしく思うのも確かだ。