■HMVでいい調子にCDとか注文していると、当然いい加減積みあがってくるわけですが、もっぱら聴いているばっかりでアウトプットにはつながっていませんでした。エンヤとかPSY・Sには言及した覚えはあるけれどそれくらい。検索すれば(例えば)ジャズアルバムについて1枚1枚述べているブログやら記事やら見つかるわけですが、そういうことを書かなかったのは、似たり寄ったりのことしか書けないから、というか、音楽について書ける言葉を知らないから。「透明感が」とか「温度感が」とかいった語彙だけなら、たぶん書かない方がマシだろうし。
『意味がなければスイングじゃない』はもちろん「スイングしなけりゃ意味がない」のもじりで、書店で平積みになっている村上春樹の文庫本のタイトルを見た時、反射的にジャズ本だと思ったのですが、それだけではなくてクラシックもあるし、ロックもあるし、もちろんジャズもあるし、スガシカオもある。
音楽を聴いた印象について書くことは難しい。たぶん、単に言及するだけなら現代美術について書く方が易しい。とにかく見たままの視覚情報だけを書くだけでも言葉を連ねることができるから。でも、音楽は「聴いたままについて書く」ことができない。そういう語彙がそもそも無いということもあるし、おそらく音楽を聴くということがとても個人的な体験だということもあると思う。音楽そのものを記述する語彙が無いため、リスナーは音楽を聴いた体験について書くしか無い(その印象を求めて聴くのだから、それで十分なわけですが)。ただ、それがあまりにも私的すぎるので、「自分にはこう聴こえたんだ」的な内容にならざるを得なくなり、結果として同じ曲を聴いた人でないと伝わりにくいことになってしまう。
そんな風に思っていたのですが『意味がなければ‥‥』を読んで、こういう書き方もあるのかと思いました。ただ、切り口としてあるアルバムを取り上げてはいるのですが、語られているのはアーチストの方です。
著者自身が聴きこんで、好きになった曲、アルバムをアーチスト自身の個人史に絡めてポジションを明らかにし、その曲がアーチスト自身にとってどのような意味合いがあったのかを語る。ただ、資料的な記述に終始するわけではなくて、そこに著者自身の個人的体験をきちんと織り込んでいて、1リスナーの聴取体験としてもきちんと読むことができる。その結果として、「アーチストがこういう状態にあって、自分がこういう状態にあったときに出会った」というフォーマットが成立することになる。(全部が全部、というわけでもないのだけれど)
だから、本書に収められた1つ1つのアーティクルは、それぞれのアーティストについてのライナーノーツ的な紹介として読めるのと同時に、著者自身の聴取体験コラムとしても読めるようになっています。
ただ、このスタイルだと、どうしてもフォーカスはアーティストにあたるから、アルバム1枚1枚について、アーティストの個人史というコンテキストから切り離した状態での紹介というのは難しい。そういう聴き方はありえるし、特にアーティストからではなく、たまたま買い求めたアルバムから入っていく(なにしろ自分がそういうアプローチを取っているから)という聴き方をしていると書けない。そういう接し方をしていると、アーティストの存在そのものは極論すればアノニマス化してしまうからだ。
どちらの聴き方が優れているとか、より深いとか、そういう問題ではないだろう。そういう聴き方、アプローチの仕方も面白いんだということが伝わってくる、そういう本でした。
改めて考えるまでもなく、そうしたアプローチをした本(特にジャズ本)は読んでいるはずなんですが、方法論の楽しさをキチンと伝えているのはさすがにこの著者だから、なのでしょうね。