■街が人間の暮らしから独立し、あたかも別個の生物のように息づいているかのような見慣れぬロンドン。チャイナ・ミエヴェルの短編を通して見えてくるのは、物の怪が棲む空間と化した通りの景色だ。こうした都市空間の認識のされ方は今の日本では難しいだろうと思う。物の怪が棲むには、たぶん日本の都市は新しすぎる。それに、スクラッチ・アンド・ビルドのサイクルが短すぎるだろう。むしろ、「物の怪」の居場所を無くすかのように、明るく、清潔に都市空間は作られている。
文庫本はけっこうな分厚さでひるんだのだけど、収められている短編はどれも(短編なので)短く、読みやすい。そのいずれも現実のロンドンから相がずれた、見慣れぬ街が描かれる。
表題作でもある『ジェイクをさがして』は何かが起きたロンドンを主人公は放浪する。何が起きているのか、についてはついに明らかに描かれることはない。ただ変わってしまったロンドン、異形の街の姿が描かれる。
正直、SFというよりはファンタジー、ホラーとして紹介されるのが妥当のような気はする。共通しているのはロンドンという街そのものが、そこの住人から独立した存在として描かれていることで、そこは人工空間というより、自然空間のような扱われかたをしている。こうした描き方は例えば今の東京都区内を舞台にしても難しいだろう。時代設定を戦前にしたのなら、あり得るかもしれない。今の東京は何かが棲むには新しすぎる。
その何かは『基礎』もそうだし、『ロンドンにおける"ある出来事"の報告』は典型かも知れない。『ロンドンにおける…』は街の「通り」が移動したり、互いに闘争していたりする様が暗示されていて、物理的にどういうことになっているのか正直戸惑う。面白いアイディアだとは思うのだけど、絵がさっぱり思い浮かばない。ただ、この掌編に描かれている世界をありのままに受け入れると、「ロンドン」はそれ自体が生物であり、人間はそこに寄生している存在ということになる。
街そのものがそこの住人とは独立して存在している構造が端的に表れているのが『鏡』になるのだろう。この短編の中で描かれるロンドンの中で、人間は街のいたるところにある鏡面から出現した「イマーゴ」に駆逐されている。主人公はなぜかイマーゴに襲撃されず、イマーゴの親玉へ交渉に向かう。その結論はやはり、都市が人間から独立した他動の存在としてあることを象徴しているようだ。
『ジェイクをさがして』からしてそうなのだけど、現象は描かれるがメカニズムがつまびらかにされることは少ない。謎は謎のままで伏せられるし、都合が良すぎると感じることもある。ただ、他動の存在として描かれる街の景色に暗い魅力があるのは確かだ。