■ある意味でユートピア小説。「空気」という暗黙の同化圧力が究極に推し進められた状態を描く。「空気」が息苦しさを伴うのは、本音と建前の乖離があるからだが、建前に本音を同化させてしまえば息苦しさは解消されるが、同時に個人も消滅する。正確には個人の意思というものが不要となる。
作者の伊藤計劃がこの作品を執筆している時点で肺がんを患っており、本書を上梓した後、惜しまれる中逝去されたことはよく知られている。本書の「思想」を支えるバックボーンとして個人監視システムの存在があり、その背後には公衆衛生上の需要、あまねく個人の健康を管理するという社会的欲求が存在している設定に、作者自身をとりまく状況を観てしまうのはうがちすぎだろうか。
例えば「禁煙」「嫌煙」を巡る言説が、時として「健康ファシズム」と呼ばれるように、あたかも絶対的正義として流通することがある。しかし、「社交ツール」としての側面を取り上げ、吸わないことを「非社交的」として非難する(あえて言えば)「社交ファシズム」のような言説も存在する。
どちらにしても大きなお世話なのだが、どちらにしても個人的な行為に対して、社会的な有益性を紐付けて自身の論説を正当化しようとするメカニズムは共通している。
どちらにせよ、ここでは「公共」が「個人」の領域に侵入している。もちろん社会から完全に切り離されたスタンドアローンで行動できる人はそういないので、誰しもが「公共」との間で調整を図らなければならない。その公共と個人との領域には明確な境界線があるわけではなく、曖昧であり、常に揺れ動いているがために、ファシズム的言説は暴走しやすい。
個人と公共との調整、平たく言えば他者との折り合いをつけるという行為はもちろんストレスとなるわけで、ここで「公共」に全てを委ねてしまうことができればもちろんストレスからは解放されることになる。
その意味で『ハーモニー』のラストは『1984』(オーウェル)と同列のディストピアを描く。もちろん全体社会主義体制への危惧がリアルに存在していたジョージ・オーウェルの当時と、今とでは作品の背後にある政治的コンテキストは全く異なる。
危険性を訴えるシンボルが明確だった『1984』の当時とは違い、今現在広まりつつある全体主義的「空気」の主体は、個々人の集合、つまり文字通り「クラウド」(群集)であって、解りやすいシンボルは存在しなくなっている。
そのため主人公の闘争の相手は具体性を持つことができない。主人公が対峙するのは究極の「空気」を作り出すメカニズムの管理者であって、空気を求める普遍的な動機そのものへは到達できない。それは個々人の中に遍くインプリメントされているからだ。主人公はまだ「メカニズムの管理者」というシンボルを持ち得ただけでも幸運だった。
現実に生きる我々には、「メカニズムの管理者」という外部シンボルは存在せず、自分達自身に向き合わなければならないからだ。