窓からは相変わらず膨れ上っている北千住の複合ビルが見えた。横浜や幕張とは違い、北千住には未だどの系列にも汲みしない企業が資本を投下していた。それは迫り来る高波に慌て、岩石を次々海に沈めて堤防を作る様に似ていた。実際、経済的な高波が幕張と横浜から押し寄せていた。
圭はそうした事情をあまり良くは知らなかった。しかしいずれそうした現実に向き合うことになることを彼女は予感していた。だが、今は、まだ。
今は、まだ。
唇がティーカップに触れる。ダージリンを一口。
「で、結局何も無かったわけ」
正面に座る麻奈が言った。その隣りにはシャオメイが座る。
「あんたたち、ちょっと変なんじゃないの」
「わたしはまとも。宏一君は変わってるわね。確かに」
しかし、何も無かったわけじゃない、と圭は思う。圭は何となく、何となくではあったが、宏一の表情を読めるような気がしていた。宏一は自分が何を思っているのか、何を感じているのか、滅多に口にすることはない。それでも表情には、僅かに感情が出ていた。そのことに最近気が付いた。それだけ以前は彼の顔を見ていなかったのだろうと圭は思った。
紅茶を一口飲み、ちらりとシャオメイを見やる。シャオメイはその目線に敏感に反応した。
「なんです?」
圭は笑みを浮かべながらティーカップをソーサーに戻した。どうしよう、と圭は迷った。シャオメイには以前から聞いてみたいことがあった。ちらりと麻奈の方を見ると我関せずといった顔でコーヒーを飲んでいる。麻奈はわたしが訊きたいことを知っているのかしら、と圭は思う。
「‥‥シャオメイさん」圭はおずおずと切り出した。「怒らないで欲しいんだけど、あなた、自分のセックスがどっちだと思っているんですか?」
シャオメイは目を丸くした。
「そりゃあ、女です。でも‥‥」彼女ははにかんだような微笑みを口元に浮かべる。「夢に見るんですよ。TS前の身体に入った夢なんです。ラボで言われていましたけどね。記憶までは変えられませんから」
「カッティング・エッジで〈アキラ〉を選ぶのって夢を見るような感じなの?」
「夢とは少し違うんですけどー‥‥何ていったらいいのか、女性キャラだと何だか二重に憑依している感じがするんです」
シャオメイはそれ以上言わなかったが、圭には何となく解った。麻奈が変わらないものと言った何か。体感覚の記憶ではない。体感覚は付随的なものだ。
変わらない何か。そういうものがあるということは圭だって感じていた。しかし、知ることと、実際に探りあてることは別なのだ。シャオメイにはシャオメイの、麻奈には麻奈の、圭には圭の、それぞれ違った形を持つ何かがある。それがどのような形をしているかは、実際にさぐりあてないと判らない。そして、そう、もちろん、宏一には宏一の。
圭は宏一の表情をずいぶんと意識するようになっていた。半年くらい前の、バイトで知り合って間も無かった頃の宏一は、ただ無口な、何を考えているのか判らない、暗い人でしかなかった。そうした、ただただ黙りこくっている人との付き合いは宏一が最初ではなく、中には本当に何を考えているのか詰問したくなるような人もいたりして、圭は宏一をそれと意識することなく、そうした人達の一部としてカテゴライズしていたのだった。自分の中に抱えている影の部分を通して見ていたのだった。
圭は自室の窓から高い空を見上げる。
彼が喋らないのは、喋るに値する話題が無いからだ、と今の圭は思っていた。
――彼の関心はわたしや大下さんや菱さんとは違う方を向いている。おそらく川の向うに。
圭は先日聞いた宏一の話に登場した猫の事が脳裏から離れなかった。ごみ箱の上に乗って流されてきたという猫のことが。猫は宏一の肩の上にしがみついて錦糸町の駅まで一緒に流れた。猫はそこで新しい住処を見つけたようだったが、宏一は果たしてどうなのだろう。
圭には、宏一が未だ海水で水浸しになった埋め立て地を漂流しているように思えた。少なくとも圭はそう理解していると思っていた。もしかしたら違うのかもしれない。また、別の形でのカテゴライズをしているだけなのかもしれない。
――あなた、ポジティブ?
以前VR空間で交わした宏一との会話が蘇る。
わたしは本当に宏一を理解できることができるのだろうか。いや、宏一だけでなく、大下さんや、菱さんのことを、麻奈やシャオメイやその他の人々の事を本当に理解できることができるのだろうか。本当に理解できることなど出来るはずもなく、お互いに相手を理解しているという錯覚だけが残るのではないのだろうか。わたし、という存在を伝えることも、あなた、という存在を理解することも不可能ではないのか。
――わたし、キック、ポジティブ。
圭の手は自然と〈アクション・トーク〉を語っていた。
わたしは〈K〉、わたしは圭。わたしは‥‥。
圭は空しくなった。名前を伝えてもしょうがない。Kという名前が表す〈何か〉が圭であることを理解してもらわなくては駄目なのだ。もちろん、普通の人――例えば大下や菱井――ならそんな事を疑ったりはしないだろう。ゲームマシンのシステムがそのことを保証しているからだ。でも宏一は違った。彼はシステムを信じていない。何も信じていない。
――あなたは僕が〈KOH1〉だとなぜ思うんです。
いつだったか宏一はそんなことを言った。それじゃあ、あなたは誰なのでしょう‥‥そして、わたしは誰なのでしょう。あなたはどう思っているのですか?
圭は微笑んだ。
――たとえわたしが〈圭〉という名でなかったとしても、わたしはわたし。それがわたしの形。たぶん彼が〈K〉を通して見ている形。
湾岸部が水没して以来、首都高湾岸線とそこへアクセスする線を利用する車は途絶えたが、湾岸線全線が封鎖されているわけではなかった。葛西ジャンクションから東は震災前と同じく利用可能だ。しかし、新木場の冠水によって湾岸線が寸断された結果、都心部および川崎、横浜方面へのアクセス経路としての利点が失われ、交通量は激減した。湾岸部からの人口流出もその傾向に拍車をかけていた。また、中央環状線の橋脚が海水に洗われ、腐食が進んでいるという噂もその傾向を加速していた。だが、実際に封鎖されているわけではなかった。
圭は車を四つ木から首都高中央環状線に乗り入れ、南へ向かった。一人だった。この間奮発して取り付けた助手席側のHUP(ヘッドアッププロジェクタ)はロードマップと時刻を助手席側のフロントグラスに投影していた。午前9時24分。太陽はまだ低かった。朝から雲一つない快晴で、そのため圭は寒さで目を覚ました。放射冷却効果と気象サービスは説明していた。
平井大橋の上を過ぎる。ルームミラーに後続の車は無かった。前方にテールランプは見えなかった。圭はアクセルを踏み込んだ。
――いろんなものを置いてきたんでしょうね。
シャオメイの言葉を思い出す。道はゆるやかに右へ弧を描き、圭の視線も右へと動く。きらめきが目に飛び込んだ。海に浸かった街が朝日を反射したのだ。
あの人、ずいぶん気の効いたことを言うわよね、と圭は思った。TS前、彼女はどんな男性だったのだろう。
遥か洋上の空を旅客機が飛んでいた。東から、西へ。おそらく関西空港への国内便だろう。
圭は右手のきらめきにちらりと目をやった。
あの水の下に宏一の忘れ物がある、とシャオメイなら言うのかしら。まるで夢判断の話みたい。
船堀橋の封鎖されたランプ出口を通り過ぎる。
ふと、ここで車を路駐したい衝動にかられた。こんな見捨てられたような道路、別に停めたって構わないだろう。
圭は車を左に寄せ、しばらく考えてまた右に戻した。どうせ停めるなら、ずっと先がいい。
かつての葛西ジャンクションは洋上にあった。右に曲がれば夢の島、そして有明。今は高台だけが海面から顔を出した孤島に成り果てている。現在、有明方面への道路は封鎖されているので、ジャンクションではなく、単なるカーブである。
圭は風に乱れる髪を手で撫で付けた。
路肩に立つと、水面から顔を出した枯れ木が、街灯の列が、廃棄物再生場の廃虚が、放棄された水門が見えた。
――宏一が住んでいたのはどのあたりなのかしら。
圭の目は北に向き、かつて街だったものの残骸を眺める。水面からかろうじて頭を出しているコンクリートの道が昔の陸地の輪郭を偲ばせる。潮位上昇に対応し、巨費を投じて作られた三メートル堤防の残骸だった。しかし、あの震災で工事完了前の箇所や水門が壊れ、結局役には立たなかった。その後もじわじわと潮位は上昇を続けており、三メートル堤防もやがては波間に消えるだろう。資金難と政治的混乱で排水工事が始まる気配はない。
圭の胸が締め付けられるように痛んだ。
ここにはどれだけの忘れ物が沈んだのだろう。ここに忘れ物をした人は今、どんな気持ちで日々を送っているのだろう。
エンジンの音が近づいた。圭は振り向いた。交機のパトカーだった。パトカーは圭の車の鼻先を抑えるようにして停まった。運転席側の婦警はハンドルに手を置いたまま、顔だけをこちらに向けていた。助手席から警官が降りてきた。手にした携帯端末のアンテナを立てる。
「そこで何をしているんです。故障ですか」
警官は圭より一回り程年嵩に見えた。圭は一瞬身構えたが、すぐに緊張を解いた。警官が怪しむのは当然なのだから。
「いえ、景色を。この景色をどうしても見ておきたくて」
警官は訝しげな表情を浮かべる。
「知り合いの家族が、ここで亡くなったんです。それで‥‥」
警官は婦警と視線を交わすと、携帯端末のアンテナを畳んだ。
「これは仕事だから言っておくが‥‥ここは駐車場じゃないんだよ」
「でも」圭は思わず言い返している。「こんなじゃ、規則なんて意味ないじゃないですか」
警官は寂し気に微笑んだ。圭は少し後悔した。
その日の午後、圭はいつものように店に出た。裏口から入ると、大下がアルミ缶の詰まったダンボール箱を冷蔵室に運び込んでいるところだった。
「おう、高木さん、早速レジ入ってくれないか。今宏一だけなんだ」
「わかったわ」
大下は自分の体力を見せ付けるように、黙ってダンボールを運んでいた。まるでそれが自分の義務であるかのように。それが当然あるべき姿であるかのように。
以前はその姿勢がうっとおしかった。無言のうちに役立たずだと言われているような気がしていた。ただ、今は‥‥。
「なんすか」
大下が訊いた。
「なんでもないわ」
今はそれも誤解だということが判る。それは自分が抱えている劣等感の裏返しでしかない。大下が本当は何を思っているのかは、大下しか知り得ないことだ。そこは外から窺い知ることができない領域だ。
レジに立って客をさばいていた宏一は、圭の姿を認めて微笑んだ。圭も微笑む。
「今朝、葛西まで行ったわ」
圭はレジの裏に積まれた簡易小包を奥に運びながら言った。宏一が黙って圭を見返した。
「静かで‥‥とてもきれいだったわ。車を路肩に停めて見ていたのよ。そしたら」
圭は何が入っているのかわからないがとにかく重い箱を降ろして一息入れた。
「そしたら警察に見つかっちゃってね。でも、お咎めなし。その警官も懐かしくなって、走っていたんだって。制服着てここに来るの最後だろう、とか言ってたわ。企業グループの御雇い警官になるくらいなら、辞職するつもりだから、とか。その人の家も、やっぱり沈んだんだって」
あの警官が見せた寂し気な表情は、当分忘れることができないだろう。
圭は宏一を見た。宏一は相変わらずの無表情で圭を見つめていた。しかし、その目は、あの警官と同じ目をしているように圭には思えた。その目の色を見誤ってはいないだろう、見誤っていないで欲しい。圭は願った。
「ねえ、宏一君」圭はふと思い付いて言った。「久しぶりにマッシュポテトに行かない?」
宏一は頷いた。
その世界は非在の空間であり、テクノロジーが作り出す虚像の世界だった。しかし、その世界はコンピューターメモリーの投影という意味において、実在していると言える。実空間に存在する壷の姿を光の反射で目が捉えるように、光の投射に変換されたメモリーパターンを目が受け止める。受け止められた光は大脳後部視覚野で処理され、言語野と連動し認識される。そのパターンは壷の姿をとるかもしれないし、あるいはファイティングポーズを取るファイターの姿をとることもある。脳にとってはどちらも同じだ。
『ユウ、ローズ』
圭は実世界に滑り落ちる。現実とかいうものを肌で感じる。もしかしたら、今もわたしは繭に入っているのかもしれない。圭は思った。その繭は存在していないけれど、実は在る。非在の繭に閉じ込められた実在の世界に私はいる。
でも、繭があることにさえ気がつけば、繭の中にいることにさえ気がつけば、それは別になんでもないこと。
圭はゲームコクーンから出てきた宏一に近づいた。
「宏一君」
振り返った宏一に、圭は軽く拳を突き出す。アクショントーク。
――わたし、〈K〉、ポジティヴ。
宏一はぎょっとしたように圭を見つめ、そして照れくさそうに微笑んだ。
――わたし、〈KOH1〉、ポジティブ。
そうよ、簡単な手があったじゃない。圭は拳を開いて宏一の手をとった。なんで今まで気がつかなかったんだろう。ばかみたい。
圭は指を開いて宏一の手を包む。宏一も指を開き、そして二人の指が組み合わさった。圭は宏一の掌の形を、その湿り気を感じる。
この子が「宏一」であろうとなかろうと、私が「圭」であろうとなかろうと。
圭は思う。この掌で受ける感覚は変わらない。この感覚を軸に私たちは在る。
そして二人は言葉も交わさず、並んで店を出た。