いつもの喫茶店。窓の外では灰色の厚い雲が低く垂れ込めている。くすんだコンクリートの平原に蓋をしているようだ。数羽の鳥がかぎになって南へと飛んで行った。
圭はカップを持ち上げてダージリンティーを一口飲んだ。
「‥‥ずいぶん変わってるわよね。その子」
麻奈が言う。
「変わってるというより失礼よ。はっきり言って」
「で、怒っちゃったわけね。短気ねぇ、相変わらず」
「いつ怒ったって?」
「今」
圭は一口紅茶を飲む。
「だって、わたしが〈K〉なのよ。なのに、わたしが〈K〉じゃないなんて、フザケてるとしか思えないじゃない」
「信じられないって?」
「信じられないも何も、わたし以外有り得ないわよ。そういう仕組みなんだもん。誰だってわかるわ。当たり前の話なのよ」
麻奈もダージリンを一口飲む。
「そういう仕組み、ねぇ」
カッティング・エッジのゲーム筐体はインターネットにぶら下がり、世界中へつながっている。プレイヤーは対戦相手を全世界から求めることができる。その場合やっかいなのは遠距離通信につきもののタイムラグや、十分な通信帯域を保証できないという問題なのだが、LLGW社ではゲームの応答速度を操作することでゲームとして成立させた。もちろん応答速度は落ちるので快適な環境とは言い難いが、全世界を相手にできるという面白味があった。
圭はゲームの起動空間から〈ボルタックの酒場〉に入った。球形の空間全面に名前のリストが並ぶ。国、街、店、名前。その4つが揃ってようやく一人のプレイヤーを特定できる。圭の通り名はKだが、公式には〈K@TECH_LAB.yanagi-hara.adachi.tokyo.JP〉として登録されている。最初に登録した店のアドレスだ。
圭は「対戦待ち」の状態で待つことをせず、ランダムに対戦相手を選んだ。一般に「十番勝負」と呼ばれているモード。
『レディ‥‥ゴゥ』
〈アキラ〉が何の余裕もなく、問答無用でかかってくる。クルードな手合い。動きが大振りで、素人くさい。アクション・トークなど知りもしないだろう。圭は左右の連打と肘打ちを入れ、回し蹴りで倒したところでジャンピングニードロップできめる。容赦はしない。
『レディ‥‥ゴゥ』
〈アブドゥル〉がじっと待っている。こちらから仕掛ける一瞬を狙っている。先制攻撃をかわされたとき、隙が生まれる。相手はそれを狙っている。
しかし。
圭はそうした相手をあしらう術を会得している。かわされなどしない。
『レディ‥‥ゴゥ』
〈ブル〉がその肥満気味の巨体に似合わないステップを踏む。アクション・トークのネゴシエーション。圭は口元に笑みを浮かべ、それに応じる‥‥。
『レディ‥‥ゴゥ』
〈アレック〉がファイティングポーズをとって構える‥‥。
『レディ‥‥ゴゥ』
〈リー〉が‥‥。
『レディ‥‥』
繭が開く。
圭はぐったりと重い身体を動かして繭から抜け出た。とてもだるい。10人全員を打ち破った。Kのポイントは上がっているだろう。
わたしが〈K〉なんだ。圭は思う。「北千住のK」とこの近所で知られているKはわたしなんだ。他の誰でもない、このわたしが。
例によって身体感覚の違和感があったが、今はそれほど気にならなかった。疲労感の方が勝っていた。店の隅にある円椅子にどっかと腰を降ろす。
「圭さんですねー」
素っ頓狂な声に名前を呼ばれて、圭はぎょっとした。慌てて声の主を探すと、見覚えのある顔がそこにあった。シャオメイだった。
彼女は病的なまでに白い顔に真っ赤なルージュをひき、毛足の長い合成毛皮の襟をつけた黒いマントを羽織り、黒のタイツに黒のレザーブーツを履いていた。圭は気圧された、というより唖然とした。
あの格好で繭に入るつもりかしら。
「こんにちわ。シャオメイさん」
「さん付けはいらないですよー」
シャオメイが近づいて来る。対戦をするつもりだろうか。圭は迷った。今はまた繭に戻れる気分じゃない。どう言って断ろう。
「十番勝負、見てましたよー」
「あら、まあ」
「さすが〈北千住のK〉って感じですねー」
「それほどのもんじゃないわ」
「わたしもMEZoじゃ少しばかり鳴らしたんですよ。でもここじゃ全然」
「メヅォ?」
「幕張経済地域――そこの〈出身〉だから‥‥」
「ああ‥‥」圭は察した。そこで手術を受けたわけね。「MEZoだとクラスAの筐体ばっかりなんでしょうね」
「インターフェイスの実験場みたいだったなー。コクーンもずっと自由度が高くて本当に腕を振り回せるのもあったし」
「それに比べれば、ここの中古のコクーンなんてクラスBみたいなもんでしょう」
「そんなことはないですよー」
シャオメイは小さく首を横に振る。可愛らしい、と圭は思う。悔しいくらいに可愛らしい。
「でもインターフェイスが変わると、勝手が違うでしょう」
「それはありますねー。でも、馴れれば変わらないですよー。ここは強い人が多いですよー」
「震災後に流れ込んできたから。宏一って知ってる? 坂下宏一」
「KOH1ですかぁ? 知ってますよ。彼もそうなんですかぁ」
圭は頷く。
「‥‥いろんな物を置いてきたんでしょうねー」
圭ははっとする。もう三年‥‥まだ三年。
それからしばらくシャオメイと言葉を交わして、圭は店を出た。脳裏にシャオメイの姿が焼き付いている。彼女が元々マッチョの男性だったというのはとても信じられない。絵に描いたような美人――そう、文字どおり「絵に描かれた」容姿の持ち主。麻奈にそう教えてもらっていなければ、絶対に気が付かなかっただろう。‥‥それともわたしは麻奈にかつがれているのだろうか。
客がいなくなったのを見計らって、圭は商品の補充をすることにした。レジは菱井に任せ、倉庫に向かう。途中、裏口の前で大下に会った。
「こんにちわ。今日は早いんですね」
「おう。夕べは卓囲まなかったからな。飲まなかったし」こきこき、と首を曲げる。「おかげで久々に良く寝たよ。頭もすっきりしてるしな」
あはは、と圭は笑ってみせる。そんな当たり前のこと自慢しないで。
「菱さんレジにいるわよ」
「圭さんは補充? 菱さんに頼めばいいのに。俺、手伝うよ」
一人でできるわよ。
「助かるわ」
実際、助かるのだ。大下の体格は圭より一回りも二回りも大きい。圭がやっとのことで運べるソフトドリンクのアルミパックを詰めたダンボールの箱も、大下は軽々と扱う。悔しいがあんな真似はできない。できるとすれば繭の中だけだ。
「どれを出すの」
「烏龍白茶」
「ほいきた」
積み上げられた箱のてっぺんから烏龍白茶の2ダース箱を取り出す大下を見て、圭はなぜかシャオメイのことを思い出す。昔の彼女(?)もあんな感じだったのだろうか。なぜ彼女は身体を変えてしまったのだろう。
圭はくすり、と笑った。
「何?」
「なんでもない。なんでもない」
大下が女装した姿を想像してしまったのだ。
「シャオメイがTSした理由?」
圭と麻奈は北千住駅複合ビル内のファッションモールを歩いていた。モールの天井から等間隔に吊るされたフラットディスプレイにはGNN配信のニュース映像が流れていた。音声は雑踏の中に紛れて聞こえない。
「詳しいことは彼女に直接訊いてほしいな。あたしもまるきり知らないわけではないけどね。でも、そんなに特殊な話でもないみたいよ」
「同一性障害?」
「言っちまえばね。そういうことらしい。自分の身体が自分のものでないという感覚。あたしも昔そのことで悩んだよ」
「‥‥この前VRハウスで会ったのよ。彼女が元マッチョだったなんて信じられない。ひょっとしてわたしをからかってない?」
「本当のことだよ」麻奈は笑う。「そこの店に入ろう」
二人は喫茶店に入る。窓は無かったが、内装は明るい調子でまとめられていた。圭は少し落着かなく感じる。ウェイトレスが朗らかに微笑みながら近づく。
「あたしはコーヒー。ミルク入れてね。圭は」
「おんなじでいいわ」
ウェイトレスが一礼して去っていく。
「珍しいね。圭がコーヒー飲むなんて。‥‥で、どこまで話したんだっけ。圭がそのお稚児さんと寝た話だっけ」
「水かけるわよ」
「冗談よ。‥‥彼女は男よ。遺伝子レベルではね。精巣も低温保存されているからあたしは彼女の子供を産めるのよ。卵子同士を使った受胎はまだ研究段階だそうだから、その点あたしたちは有利なわけ。法的には女性同士だけど、生物学的には男女のペアだから。それに、男の子を産むこともできるし。仮に受胎できたとしても女同士で男の子は無理だから」
「XXとかXYとかそういう話だっけ」
麻奈は軽く笑みを浮かべた。
「自分がこんなだから、いろいろ勉強したんだ。生物学、心理学。緑陽はそのへんを買ったらしいわ。今は保育園の保母さんみたいなことしてる‥‥まぁ、どうでもいいけど」
「彼女を見てると嫉妬しちゃいそう。女に生まれついたわたしって何? とか思っちゃう」
「‥‥あたしは結局のところ、男性とか女性とか、そういうのも服のようなものだと思ってるんだ」麻奈は言った。いつになく真剣なまなざしだった。「あたしの心はそうした服を剥ぎ取った中にある。あたしはシャオメイの身体が好きなわけじゃなくて、彼女の心と波長が合うのよ。だから、あまり性を意識することはないんだ。彼女の身体は見かけは女性そのものよ。本当、羨ましいくらい。骨盤や声帯は交換され、擬似子宮や卵巣擬様体まで埋め込まれてホルモンバランスも調整されてる。あたしより女らしい。羨ましいことに月のあれは無いけど。‥‥骨格も一部再発生してるから、レントゲンを撮ったってわからない。でも、遺伝子検査をすれば紛れもなく男だってことがわかる」
「混乱しそうね。シャオメイは女性なのかしら、それとも男性?」
微かに不快気な表情を麻奈は浮かべた。
「そうした分けかたに元々意味が無かったんだよ。最初は服に名前をつけ、それから布地に同じ名前をつけた。ところが同じ布地から違う服を作れることが解った。混乱の元はそれね。どのレベルに注目すれば良いのかわからない。遺伝子的には男性、生物学的には女性。ついでに、社会学的には男性、っていう人もいるかも。でも、あたしにはどうだっていいんだ。あたしが見たいのは服の中身なんだもん」
「まぁ、麻奈ったら」
圭がふざけて手で口をおさえ、二人は笑った。
『ブラッシュアップユアソウル』
繭の中の世界。そこには無いが、しかし同時に在る世界。圭はどこかのビルの屋上にいた。
夜。屋上の縁から向うに広がるのはオレンジと白と赤の光でアイシングされた平原。ヘリが赤い航行灯を明滅させて飛ぶ。
ステージとなるのは鋼鉄製のメッシュで作られたヘリポート。供給されるエアは冷やされ、ウォーターバッグの水も冷やされている。音響効果は万全で、触感に注意を払わなければ本当に地上から遥かに高い屋上にいると感じることができる。メッシュ越しに足元を見れば、遥か下方に街路が見える。その距離感に圭の足がすくんだ。クリスではなく、圭の足が。
圭は鋼鉄の網を踏む。背は高く、腕はひきしまっている。眼に入るのはクリスの身体。
――あんたクリスに一体化しちまってるのね。
麻奈にはそう言われた。麻奈ならこのクリスのフィーメール・フォーム(雌型)を服だと言うだろう。
確かに服という表現は言い得ている。この服は強力だ。繭の外では味わえないパワーを持っている。そしてこの服はしっくりする。この世界で圭はクリスだ。Kですらない。〈クリス〉なのだ。
ステージの向うで待ち構えているのはアレック。暗い表情をしているのは、妹を亡くしたからなのか。望まぬ闘いを前にしているからなのか。彼の表情が生き返るのはおそらく復讐を果たした時。ミャンマーよりさらに奥地の架空の山を根城にするマー将軍を倒した時なのだろう。しかし、アレックはいわば服だけ。いわゆるソリティア。CPUが彼を操る。
『ゴウバックトゥホーム。ミス』
アレックがにやりと笑う。馴染んだ声が虚空より響く。
『レディ、ゴウ』
アレックがすり足で近づく。圭はじっくり構えて相手の出方を待つ。対CPU戦では、それほど積極果敢に責め立てる必要はない。
アレックがリーチすれすれまでに近づく。圭は一歩踏み出し、素早く一撃を加えた。アレックの体制が崩れた刹那、一気に間合いを詰める。アレックはよろめきながら二歩、三歩と退く。まるで多少ゲームに馴れてきた初心者のように。
CPUが相手でもその動きは人間を相手にしているのと変りない。圭は小さく笑う。「小人さん」が後ろで操っているという冗句もある。
でも、もしかしたら、と圭は思う。
もしかしたら、実は人間が後ろにいるのかもしれない。隠れて操っているのかもしれない。それほどCPUの動きは人間臭い。
――もしかしたら。
そして圭は、宏一が何を伝えたかったのか、理解できたような気がした。