繭の中の世界。認知心理学を加味されたレンダリングとテクスチャマッピングからなる擬似空間。古い言い方を借りれば、文字どおり「そこにはそこがない」。
菱井がいるのは再現された仮想の大連、その郊外。彼が憑依する〈トモエ〉は街路樹の緑濃い通りを歩く。〈トモエ〉――トモエ・タカハシはブラジル日系五世で、タカハシ家に代々伝わるオパール「紅瞳」の由来を明かすため地球の裏まで飛んで来たのだった。
〈トモエ〉の歩みに従って景色が動く。街にはさまざまな音があふれていた。耳に飛び込む広東語のおしゃべり、今では骨董品に近いガソリンエンジン独特のくぐもった爆音、自転車のベル。菱井は〈トモエ〉の行動に干渉できない。ただ、彼女の行動を受け入れ、彼女が見るものを見る。カッティング・エッジのシネマ・モード。彼はシネマの中にいる。
トモエは劉という老婆を探していた。初代タカハシの出身である岩手のとある漁村で、トモエは「紅瞳」が戦後、大陸からの復員兵が持ち帰ったものだという話を知り、その手がかりを追ってここ、南京まで来たのだった。しかし、第二次世界大戦から四分の三世紀以上が過ぎた。「紅瞳」の謎を知る人物が存命しているかどうか、はなはだ疑問だった。しかし、取材できればとても興味深いノンフィクションをものにすることができるという予感が彼女にはあった。(と、いうようなことを、菱井は彼女のモノローグから知った)
トモエは街をつっきり、大きな橋を渡る。幅の広い川で、砂利を積んだ平べったい大きな船が橋の下をくぐっていった。
菱井は視点を切り替え、「外から」トモエを眺めた。トモエはその日本人的な名前とは裏腹に、ラテン系の特徴が濃く表れている。彼女の名前、トモエ――巴には、タカハシ一族の感傷が表れていると言ってよかった。タカハシ家はブラジル社会に深く根をおろしたものの、アイデンティティの根幹には未だ極東を指向している部分があった。トモエ自身のこの探索行もまた、一族のルーツ、つまりは自らのアイデンティティを探る旅であった。
菱井はトモエに従って南京を歩く。菱井にはトレーニング・モードで積極的に格闘するよりも、シネマ・モードでただ眺めている方が性に合っていた。ただ、ゲームである以上、シネマ・モードの途中には格闘しなければならないシーンが挟まっているので、仕方なく格闘のテクニックを覚えたのだ。無ければ無いにこしたことはないと思っていた。
トモエは南京郊外のとある農家の前に来ていた。建物はところどころ漆喰が剥げ落ち、下から煉瓦組みの壁がのぞいていた。
「――菱さんって、いつも大下さんと一緒なの?」
いつだったか、そんなことを高木に言われたことがあった。倉庫の中で棚卸し作業をしていた時だ。
「小判鮫みたいに?」
そのとき菱井はおどけて応えた。
「そうは言わないけどさ。でも何かっていうとつるんでるみたいじゃない。この間の早朝ドライブにしてもそうだったし。私、菱さんっていうと、いつも大下さんとつるんでるところしか覚えてないのよ。あ、だからどうだっていうんじゃないの。ただ、そういう感じが強いなってことなんだけど。‥‥できてるわけじゃないのよね」
「ま」顔を赤らめる仕種をしてみせ、「なんてね。そりゃ、どっちかって言えば女の人の方が好きですよ」
「どんなタイプ?」
菱井は返答に窮した。異性をタイプ別に分類できるほど意識したことはなかった。それでも、これまで気を惹かれた女性がいなかったわけではない。菱井は思い付くまま口にしてみる。
「小柄で、色白、髪はストレートで、痩せすぎず、太りすぎず。頭はいいけど生意気ってわけじゃなくて、こう、賢そうな感じ‥‥」
そこまで言って、高木の顔にうっすらと嫌悪の表情が浮かんでいることに気が付いた。
「‥‥っていうのが理想っちゃあ理想なんだけど、都合良すぎるよねぇ」
「お互い様ってところかしらね」
高木は作業に戻った。菱井は不用意に答えたことを悔やんだ。
トモエは背が高くやや痩せ気味だが、色白で長い黒髪を束ねて垂らし、そして頭が良かった。もちろん、格闘の技術も冴えている。彼女の才能は語学にも表れ、日本語、英語はもちろん広東語、仏語、独語、伊語、ポルトガル語、スペイン語、ロシア語をマスターしている(トモエの母国語はブラジル語である)。
トモエはその語学の才を生かして、農家の前で遊ぶ子供に話し掛ける。
「劉絹というお婆さんはおられるかしら」
「いるよ」
子供は何かを見つけ、走り去ってしまった。トモエは開いている戸口から中に入った。
「ごめんください」
そこは台所のような部屋で、向かいにまた戸口があり、その先に中庭が見えていた。
「‥‥ごめんください」
「劉さんにどんなご用かな」
後ろから野太い声。はっとして振り向くと、白人の男が突っ立っていた。筋肉質の身体、太く短い首。スラックスにジャケット、そしてノーネクタイという格好は観光客のようにも見える。しかし、目には厳しい色が漂う。
「あの、失礼ですが、劉絹さんとどういった‥‥」
「‥‥マー将軍の手の者か」
「誰ですって?」
「そうなんだな」
男はトモエの襟首を掴もうと手を出すが、トモエは反射的にその手をはたいていた。菱井は緊張する。
「あなたこそ誰?」
「答えるいわれはないな。女狐」
トモエはバク転し、男との間合いを取った。男の方は腰を落とし、両の拳を握るとボクシングのような構えを取った。
『問答無用ということね』
トモエのモノローグ。これから先のアクションは菱井に全て任される。
そうか、奴はアレックだ。菱井はプロフィールを思い出した。SASでも一、二を争う腕だったが、ドラッグのOD(過剰摂取)による妹の死を防げなかったことが原因でヤケを起こし、挙げ句の果てに基地内で乱闘騒ぎを起こして除隊。その後、妹に麻薬を売りつけた密売組織の壊滅に生きがいを見出す‥‥。
――奴の暗い瞳はそのせいってわけだ。しかし、アレックがここで顔を出すということは、〈紅瞳〉は麻薬絡みってわけか?
シネマ・モードでの各シナリオはネットから簡単にダウンリンクすることができる。秘密でも何でもない。しかし、菱井はそうした情報を見まいと、あえて慎重に避けていた。
――すると、アレックとはしばらくつきあうかもしれないな‥‥。
菱井は思った。だが、物思いにふけりすぎた。足を払われ、床に転ぶ。土の匂いを嗅いだように菱井は思った。
憤懣やるかたない思いで菱井は繭を出た。
アレックに不意をつかれて倒されてしまい、シネマが中断されてしまったからだ。格闘に入らなくていい、純粋にシネマだけ楽しませてくれればそれでいいと菱井は思う。格闘なんてうっとおしいだけだ。
もっとも、純粋なシネマに徹していたら、VRハウスには置かれなかったという話は菱井も知っていた。客の回転が鈍るからだ。もっともLLGW社もその辺の事情は承知していて、カッティング・エッジのシネマ・シナリオを体感シネマとして改めて公開する予定がある。コクーンを使った映画館(VRx)は、上映時間というものを決める必要がないので、旧来の巨大なスクリーンを使った映画館を駆逐しつつある。
もし、カッティング・エッジがVRxでかかるようになれば、VRハウスには来ないだろう、と菱井は思う。見も知らぬ相手に乱入されるシステムには、心底嫌気がさしていた。自分が楽しむために金を使うのであって、他人を楽しませるためじゃない。その点、純粋な体感シネマなら、他人に邪魔されることなく、最後まで楽しめるだろう。
菱井はEMカードを胸ポケットに落とすと、何気なくギャラリー用のモニターを見上げた。そのモニターの中ではアキラとゲオルグが闘っていた。ゲオルグの動きはずいぶん荒く、初心者のようだった。もう一方のアキラは、時折無駄な動きがあるものの、おおむね手慣れた動作をしている。
画面の上部に表示がでていて、アキラを操作しているのがMEIで、その人物はこの店内からプレイしていることが解る。ゲオルグを操るBREADという人物はロンドンにいる。動きが荒いのはそのためかもしれなかった。地球の裏側までデータが飛べば、それなりにタイムラグが生まれる。
菱井の目に勝負の行く末は明らかだった。カッティング・エッジはでたらめな操作で勝てるようなゲームではない。ゲオルグには万が一つの勝機もない。
案の定、勝ちを収めたのはアキラだった。自分もあれほどうまく操れたら、と菱井はため息をつきながら、MEIという人物がゲーム・コクーンから出てくるのを待った。
クロームの繭が開く。
菱井はその人物に目を奪われた。MEIは色白の女性だった。輝く黒髪を肩のあたりで斜めに切り揃えている。潤んだような黒い瞳と、明るい赤の口紅がひどく印象的だった。黒いレザーのブーツ、薄茶色のキュロットスカート、白いブラウスの上に黒の皮ジャケットを羽織っている。彼女はジャケットのポケットから金色の房飾りのついたイヤリングを取り出すと、左右の耳につけた。
MEIが菱井の視線に気づく。最初、怪訝そうな表情だったが、すぐに微笑む。菱井の方はまるでウォーターバックに全身をホールドされたようで、微笑み返すこともできなかった。菱井は熱く凍り付いてしまった。
「シャオメイ、腹減ったよ、何か食べに行こう」
VRハウスの出口あたりで、オレンジ色に髪を発色させた女がMEIに呼びかけている。‥‥そうか、シャオメイでMEIか。
「そうね、麻奈」
シャオメイは菱井にもう一度微笑みかけると、くるりと向きを変え、出口へ走っていった。
「――菱さん、今日呑まないか?」
レジに立つ大下が声をかける。店内に客はいなかった。菱井は調理済みの惣菜パッケージをパレットから低温棚に並べる作業をしていた。
「ごめん。大下さん。今日、俺、ちょっと用事があって、早くひけたいんですよ」
「俺がこうして頼んでるんだぜ」
「本っ当にごめん。頼みますよ。今日はちょっと勘弁して下さいよ」
多少の不快感を覚えながら菱井は答える。腹の中はうらはらに口調はあくまでも腰が低い。
「うーん、仕方ないなぁ、今日は一人で呑むか」
「すんません。次はつきあいますから」
菱井には行くべき先があった。彼女が表れるだいたいの時間は押さえてある。
今日もきっと彼女は表れる。シャオメイが。
菱井は店の奥にある丸椅子に腰を降ろし、モニターの中の格闘を見て暇を潰していた。自分がコクーンの中にいる間に、いつのまにか彼女が来て、そして出ていってしまうといった事態を避けたかったからだ。こんな風にして時間を潰す日がもう四日ほど続いている。
我ながら馬鹿なことをやっている、と菱井は内心苦笑していた。まるで中坊に戻ったようだ。しかし菱井は、シャオメイほど麗しい女性をこれまで見たことがなかった。美容整形・形成技術が広まった御時勢、ただの美人ならいくらでもいる。しかしシャオメイは菱井を惹きつける力を放っていた。些細な仕種、表情。菱井を惹きつけているのは造形よりも、そうした所作にあった。そうした部分に彼女の内面が表れているのだ、と菱井は思った。
――彼女はきっと、どこかの系列の上級社員の家の生まれで、幼い時からお嬢様として育てられたに違いない。
菱井は確信していた。
――あのオレンジの髪の女、麻奈とかいう人はお目付役みたいなものなのだろう。ボディーガードかもしれない。誘拐されたりしないように、街の人間のように見せかけているのだろう。もっとも、シャオメイのような女性では、どうしても内面の輝きがにじみでて、見る目のある人間が見ればそれと知れてしまう。あのボディーガードもそれは承知しているだろう。それにしても彼女はボディーガードをずいぶん信頼しているみたいだな。子供の頃から一緒に育てられた親友とか、そんな雰囲気がある。あのボディーガードの方はずいぶん男っぽい。シャオメイとは全然違うタイプだ‥‥。
店に〈彼女〉が入ってきて、菱井の思索は妨げられた。
シャオメイが先に、麻奈が後に続く。シャオメイが店に入った途端、蛍光燈の光で白々しい店内に生気が宿ったように菱井は感じた。胸が締め付けられる。そうした感覚は以前にも覚えがあった。ただ、今振り返ってみれば、それはホルモンの成せる技だったとしか思えない。結局、胸や腰に惹かれていただけだったのだ。しかし今度は違う。今度は本物だ。菱井は確信している。もし運命により定められた相手というものがいるのなら、彼女こそ、その人だ。
シャオメイが店の奥に座る菱井に気が付いた。混じり気の無い微笑みを浮かべる。菱井もやぁ、と声をかけるように手を挙げ、微笑んだ。ようやくそうできるようになった。我ながら間抜けだ、と菱井も自覚している。しかし、他にどうしようもない。
麻奈の方は、訝しげに菱井をそれとなく見ている。
「麻奈も遊べばいいのにー」
シャオメイが言う。
「あたしはいいよ」
麻奈が答え、シャオメイは僅かに肩をすくめて繭に入った。菱井はその所作の全てを見ていた。いつもはこの後、モニターを見る。しかし今日はそうできなかった。麻奈が菱井に近づいてきたからだ。
「ねぇ、あんた、ここんとこずっと彼女を見ているね」
菱井は半ば恐怖を覚えながら頷いた。正直に話しておいた方がいい。
「シャオメイさん、ですよね。あの人。なんか、すごく気になってしまって。でもただ見てるだけ。誘拐したりとか、そういうつもりは全然」
「あの娘、気になる?」
単刀直入に訊かれ、急に菱井は喉の渇きを覚えた。うつむき加減に、ひょいと頷く。
その時麻奈が見せた表情は、哀れみのように菱井は感じた。身分違いってことかな、菱井は思う。
「‥‥そう」
早くあっち行ってくれんかな。菱井は思った。こっちは早くモニターを見たいんだ。ただ、見ていたいだけなんだ。
――邪魔しないでくれ。
菱井は思った。