カッティングエッジ
§Episode-8:仮想

 菱井はシャオメイの姿を探す。
 対戦状況表示板にはMEI@VR_HOUSE1.makuhari.chiba.JPの文字が表示されている。彼女は繭の中にいる。
 菱井はギャラリー向けに並ぶフラットディスプレイの列を見上げた。マッシュポテトが所有するゲームコクーンは全部で三十基。プレイヤーはコクーンの中でプレイするゲームを選択する。殆どのプレイヤーはカッティング・エッジを選択する。
 シャオメイも、おそらくは。
 菱井はゲームの状況を伝えるディスプレイのひとつに彼女の名前があるのを見つけた。ゲームはカッティング・エッジ。アキラとブルが闘っている。
 菱井はアキラの戦いぶりをじっと見つめた。シャオメイがアキラしか使わないことに菱井は気がついていた。どちらかといえば、アキラは力押しに向いたキャラクターだ。相手の攻めをガードしてしのぎ、隙を見て反撃に転ずる。そうした戦術に向いている。元々フットワークは低めに設定されているキャラクターだった。
 しかしシャオメイは、その俊敏とは言いがたいキャラクターで足を使った攻めを見せていた。菱井は驚嘆せずにはいられない。もちろん対戦相手の練度が低いから、そうした戦術が成り立つのだと言えない訳ではない。しかし、アキラでフットワークを生かすというのは簡単なことではないのだ。菱井は、敢えて難しいスタイルを取るその姿勢をとても好ましく思っていた。そしてそのプレイヤーが線の細い、色白の美少女(にも美女にも見えた)であることがその思いをますます強いものにしていた。
 要するに、彼はシャオメイに惚れていた。

 菱井が彼女の存在を知ってひと月になろうとしていた。シャオメイのことはだいぶ判ってきていた。彼女とそのお目付がどうやら緑陽本社の、それも人事関係の社員らしいこと。彼女の顎を彩っているマーキングがRYOKUYOU・BODYBUILD(R)、つまり緑陽生体デザインのロゴであるということも。
 しかし、彼女の身体が工業製品だからと言って、その容貌に失望することはなかった。ロゴがあるということは、緑陽生体デザイン社が彼女のデザインに自信を持っている記だった。彼女は最先端の医療工学産業が作り出した高純度の水晶であり、ハイテクの雫だった。菱井にとって、その事実は彼女の魅力にさらなるアトリビュートを加えたに過ぎなかった。
 菱井はシャオメイが始終笑みを浮かべていることを、EMカードをつまむ時、必ず中指と親指を使うことを知っていた。病的な白い顔に色を添える口紅が〈フェーダー,#23〉だということも知っていた。
 菱井は別に普段口紅をつけているわけではない。たまたま店に配布されたポスターにフェーダー・シリーズの広告があり、それで知ったのだ。

 菱井がレジにいる時、シャオメイが店に来たことが一度だけあった。曇空の日で、やや強い風が吹いていた。
 菱井はその時、調子の悪いレジのスクィドリーダーの交換作業をしていた。交換アッセンブリーの梱包と一緒に作業支持書が添付されていたので、そもそもスクィド――〈SQUID〉が何であるかも知らない菱井でもメンテナンスは簡単にできた。その時は高木も同じシフトで、彼女の方は棚に並んだ商品を整列させていた。
 シャオメイが店に入ってきた時、菱井は入り口の方を見ていなかったが、ちりちりとする雰囲気を感じた。それはちょうどスクィドリーダーが商品に貼り付けられたマグネットタグに近づくだけで商品情報を読み取る動作に似ていた。シャオメイが放射する〈何か〉に彼は反応した。
 菱井がレジから顔を上げると、シャオメイはちょうどレジの前を通り過ぎるところだった。彼女は一瞬ちらりと目線を菱井に送り、店の奥へと歩いていった。ノンカロリースナックが並ぶ棚のあたりで、そこでは高木が仕事をしていた。
「こんにちわー」
 シャオメイが言った。菱井はぎょっとした。高木に話しかけているらしい。
「‥‥ええ。わたしだけ」
 高木の方は棚の陰になって見えない。
「‥‥フレキシブルだから。それにいつもいつも忙しいわけじゃないんですよー」
 シャオメイはいつものように朗らかだった。
「‥‥それじゃあ、わたし、マッシュポテトいってますからー。ケイさんも来ますよね」
 高木が何と答えたのか、菱井には解らなかった。シャオメイがレジの前を通って店を出る。彼女はその時ちらりと菱井に目線をなげていった。

 エアーシリンダーが伸長し、ゲームコクーンのシェルが開く。角膜投影式の高細解像度ディスプレイ装置、エアレギュレーター、ウォーターバッグとその水圧ドライバー/センサユニットが組み込まれている。クロームの繭。
 傾いたコクーンの中からシャオメイが身を起こす。白い顔、黒いショートヘア、赤い唇。身体のラインがぴっちりと出る黒のシャツと、黒のキュロットスカートを身につけ、ビニールのレインコートを羽織っている。
 菱井は彼女が繭から出てくる様を見守っていた。それは蝶の羽化する様子を納めた記録フィルムを連想させた。
 シャオメイはちらりと店内に目を配る。夜空のような瞳が素早く動く。
 菱井は彼女と目が合い、脈が早まるのを感じた。シャオメイが心持ち微笑む。菱井もぎこちなく微笑み返す。
 シャオメイは機敏な動作で繭から離れた。彼女は黒ビロードのブーツを履いていた。繭を出るとそのままランキングボードの前に向かい、自分の成績を確認する。彼女は菱井に背を向け、左手を腰にあてると、軽く背をそらしてボードを見上げた。ほっそりとした腰と、白い手に菱井の視線は引き寄せられる。
 今日はお目付役はいないらしい。
 菱井はそれとなく店内を見回す。オレンジ色の髪を持つあの女は見当たらない。
 お忍び、て奴かな。彼は思い、一人にんまりと笑みを浮かべた。緑陽の警備部は今ごろ慌てているに違いない。
 菱井の頭には、警備が付くほどの上級社員がどのEZoからも遠い北千住くんだりまで来るはずがない、という考えは少しも浮かばなかった。もし系列の上級社員であれば、幕張、横浜、調布、それらEZoの周辺に隆盛しつつある社宅街――企業町で大抵のことは用が足せる。わざわざ、それもただアーケードゲームをするためだけにMEZoを離れることなどまず無いのだ。
 しかし菱井はそこまで考えが至らない。
 シャオメイがボードの前で踵を返す。菱井はすうっと視線をそらす。シャオメイが菱井の脇を通りすぎ、後に香が残った。今度は菱井に一瞥もくれなかったが、菱井は満足していた。

 その日、菱井はバイトの予定を入れていなかったが、なんとなく店に立ち寄っていた。レジには高木と、新入りの木原というバイトがいた。高木は同性の仲間が増えたので、ここのところはずんでいた。
「菱さん、何しに来たの」
 高木が半ば笑いながら言った。店内に客の姿はなかった。菱井は苦笑した。何か目的があって店に寄ったわけではなかった。
「いや‥‥なんとなく」
「働き病ねー」
 高木と菱井は笑った。木原はとりあえず微笑んでいるといった様子だった。
 菱井はふと、この前のことを思い出した。
「高木さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 菱井は高木を店のスタッフルームに連れて行く。一人でレジに残された木原は眼を丸くしていた。
「何?」
「シャオメイさん、って知ってるだろう」
 高木は驚いたようだった。
「ええ、知ってるわ。菱井さんも知り合いだったの?」
 いや、違うんだけどね、と菱井は呟く。
「高木さん、シャオメイさんのことどれくらい知ってるかな」
「‥‥どういう意味で?」
 菱井は口篭もった。
「その‥‥付き合っている人がいるか、とか、そういうこと」
 あはは、と高木は笑った。
「男の人と付き合ったりはしていないようよ」含み笑いを浮かべ、悪戯っぽく、上目遣いで菱井を見つめる。「とりあえず」
「‥‥そうか」菱井は頬がゆるむのを抑え切れなかった。「‥‥そうか」
「菱さん、本気なの?」
「え? いや、まぁ、その‥‥」
 高木の表情が一変して硬くなった。
「菱さん、それでどうするんです? 彼女に告白するつもりなんですか」
「え? いや、まぁ、その‥‥そうできたらいいよね」
「菱さん」高木は済まなさそうな表情を浮かべていた。「彼女、確かに男の人と付き合ってはいないわ。でも、相手はいるのよ」
 菱井は訊きかえす。
「そういうことなんです」高木は言う。「‥‥また素敵な人は現れますよ」

 しかし、あきらめることなどできるはずもなかった。菱井は相変わらずマッシュポテトに通い、未練たらしくシャオメイの白い顔を探す。
 まぁ、いいさ。菱井は思う。今までだってただ見ているだけだった。これからもそれを続ければいい。そうすることに文句をつける奴などいない。文句を言われる筋合いなどない。
 菱井は丸椅子に座り、ぼんやりと店内を眺める。
 しかし、レズビアンとは考えなかったよな。
 店の扉が開き、客が数人入ってくる。
 珍しい話じゃないが、すっかり忘れていた。盲点だよな。しかし、なんだってまた‥‥何か酷い思いをしたのだろうか。
 菱井は憶測をたくましくめぐらす。
 ギャラリー向けディスプレイの前に、くたびれきった皮ジャンを着たティーンズの集団があった。おおっ、とどよめきがあがる。菱井がそれにつられて顔を上げたとき、オレンジの髪をした女が店に入ってきた。
 麻奈、とかいったっけ。菱井は記憶を探る。
 麻奈はSGDJV(千住総合開発合同企業体)放出のくすんだ茜色のつなぎを着ていた。ポケットがごてごてとついた不格好な服で、身体の線がわからない。しかしその茜色はオレンジの髪にマッチしていた。
 シャオメイは一緒ではなかった。麻奈は入って立ち止まると、店内を見回した。
 俺を探している。
 不意に菱井は思った。案の定、麻奈は菱井を店の奥に見つけると、まっすぐ彼の方へ歩いてきた。
「菱井さん、だね」麻奈はじっと菱井を見つめた。「時間取れるかな。圭から話を聞いてね。ちょっと‥‥話をしておきたいと思ってね」
 菱井は頷いた。

 二人は荒川に向かって歩いた。空気は冷たく乾いていて、菱井は自分の身体から水分がとんでいくように感じた。かさかさだった。
「圭から――高木から話を聞いてね。あの時もっとはっきり言っておけば良かったと思ったんだ」
 歩きながら麻奈が言った。菱井はぼんやりと頷く。
「彼女がつきあっているっていうのは、あなたなんですね」
「早い話がそういうことだね。あのコ、男と付き合うつもりはないんだよ」
「そのことを言う為に?」
「まぁ、そんなとこ」
 二人はしばらく黙って歩いた。
「僕は最初、あなたが彼女のボディーガードか何かだと思ってました」
 麻奈が小さく笑う。
「そんなところもあるかもね」
「彼女、緑陽の社員なんですよね。人事部の。上級社員なんでしょう? あなたも」
「違うよ。緑陽に勤めてはいるけど」麻奈は面食らった様子だった。「どっからそんな話を聞いてきたの」
「彼女の身体は特注でしょう。顎のロゴがその証拠ですよ。それだけの金を使えるなんて、よほどの高給取りでないと。それに、時々、適性がどうこうと言っていましたよね。隠すことはないですよ。僕は口外したりしませんから」
「隠すも何もないよ。事実じゃないんだから。確かに緑陽本社の人事部に所属してはいる。でもあたしもあのコも予備社員だよ」
「いや、隠さなくたっていいじゃないですか。警備には内緒で遊びに来てるんでしょう?」
「本当の上級社員ならEZoで遊んでるよ。わざわざ北千住くんだりまで来るもんか」
 むっとしたように麻奈は答えた。
「あんた、あのコの見てくれでいろいろ妄想してるようだけど、あのコ、女だと思う? 男だと思う?」
「‥‥女性でしょう」
「TSだよ。だから特注の身体なのさ。人体実験みたいなもんだったんだ。ラボでは転換後の生命は保証できないと言ったそうよ。でもあのコはそれを選んだ。その縁で緑陽に勤めているけど、何のことはない、ラボが経過観察するためなのよ」
 菱井は言葉を失った。
「別にあのコだって男と友達付き合いをしないわけじゃない。あんたとこの宏一君とだって、ちょくちょくゲームしてるようだし。でも、あんたみたいに自分の妄想をあのコに被せるのだけはやめて。あのコの為にも、あんたの為にもならない」
 菱井は頷くことしかできなかった。


'Cutting Edge'
Satoshi Saitou
Create : 1996.02.01
Publish: 2010.05.23
Edition: 4
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