カッティングエッジ
§Episode-9:羽化(その1)

 高木〈圭〉――故にK。それは彼女が「言っている」ことだ。もちろん〈K〉は背後に誰かがいるのであり、その誰かの別名にすぎない。宏一がKOH1と名乗っているように、誰かがKと名乗っている。
 圭を〈圭〉と呼ぶのは便宜上のことだ。名前はインデックスに過ぎない。名は体を表さない。それは実体を指し示すポインタでしかない。しかし、そのポインタを使わなければ、誰かを特定することはできない。
 あたりまえのことだ。
 しかし、その名前が誰かをポイントする、その仕掛けは誰も保証していない。強いて言えば、保証されているという皆の思い込みがその仕掛けを保証している。
 〈圭〉をマッシュポテトで見なくなって数週間たった。〈K〉をゲーム空間で見なくなって数週間たった。
 宏一の足は自然とマッシュポテトから遠のいていた。以前ほど頻繁に通い詰めることはなくなった。

 宏一は店の通路にしゃがんで、パレットから調理済みパンの包を棚に並べていた。馴れた作業であり、ほとんど無意識のうちにこなせる仕事。宏一はKを思い出している。
 Kは寡黙だ。余計なことは何も言わない(言えるはずもないのだが)。宏一もKも目指す所は同じであり、そこへ到達するには狭い門を通らなければならないことを知っている。自らの身を削る覚悟がなければその門を通り抜けることができないことを知っている。
 積み上げられたパレットの最上段が空になり、宏一は空のパレットを下に降ろす。下には次の商品が並べられるのを待っている。
 無駄の無さ、反射時間の短さ、技のシークエンスに対する独特の美学、そして謙虚と礼儀。そうした価値観をテクニカルなプレイヤー達は共有し、それゆえ宏一は言葉抜きで彼らに共感する。宏一はその空間にいるKに親しみを覚えたのだ。
 ――ワカラナイ。アナタガ〈K〉ナノカ、ワカラナイ。
 確かに高木圭は素敵な人だ。でも、〈K〉とは少し感じが違う‥‥。
 キャラクターに憑依しているからなのか、単なる錯覚なのか、それとも本当に違うのか。
 確かにシステムとしては圭が〈K〉ということになっている。しかし。
「宏一、それ以上棚に詰め込むなよ」
 菱井に言われて宏一は我に返った。二段目のパレットも空になろうとしており、棚にはパンがぎっしり詰め込まれていた。宏一は脇にのけておいたパレットを元どおり積み上げると、パレットのブロックをまとめて持ち上げた。
 そのまま倉庫へ戻すため、スタッフルームに入る。高木が来ていた。
「こんちわ」
「こんにちわ」
 高木は微笑むが、どことなく儀礼的な雰囲気があった。宏一はとりあえず倉庫へ入る。宏一の背中に高木が声を掛けた。
「次の木曜日、宏一君、休みよね。何か予定してるの?」
「うーん、特には何も」パレットを床に置く。その時ふと思い付いて、「でも、夢の島の方に行ってみようかな」
「夢の島には行けないでしょう。だって、あそこは‥‥」
「じゃあ、駒形とか、蔵前とか、西岸の方」
「川を見にいくの?」
 宏一は少しためらった。
「まぁ、そんなとこ」
 振り返ると、高木はエプロンを身につけているところだった。
「バスで行くの?」
 たぶんね、と宏一は頷く。
「車出してあげようっか」
 咄嗟に何と答えてよいか判らず、宏一は黙って高木を見つめた。
「わたしもそろそろ休み取りたかったしね」
「‥‥でも、見に行って楽しい所じゃないと思うんですけど」
「暇がつぶれればそれでいいのよ。気にしないで」
「それじゃあ‥‥」
「決まりね」

 木曜日。東京東部から千葉県西部にかけての一帯は、午前中晴天に恵まれるが午後から崩れるという予報だった。別に行楽を楽しむわけではないので、宏一はさほど意識してはいなかった。
 同乗者は他に二人いた。麻奈とシャオメイがちゃっかり後部座席に収まっていた。どちらも宏一は時折見かけてはいたが、これだけの距離で接するのは初めてだった。華やかな雰囲気は宏一だって嫌いなわけではなかったが、互いに気心が知れている女性陣のおしゃべりにはどうにも馴染めなかった。まるで奔流だった。どうどうと音を立て、渦を巻いて流れ行き、おまけにその先がどこなのか見当もつかない。行き着く先は世界の果てか。
「あはは、ごめん、宏一君。ほったらかしにしちゃって」
「あー、いえ、別に」
「あ、そうぉ? でねぇ、麻奈、それでさ‥‥」
 宏一は目が回るような感覚に襲われながら、バケットシートに身体を沈めた。ふと見上げると、サブミラーにシャオメイの顔が映っていた。まるでバーチャ・アイドルのレンダリングデータをそのまま転写したような、それでいてまぎれもなく生身の身体だった。
 宏一はまじまじとシャオメイを見つめた。彼女には何となく違和感があり、それが何であるのか、宏一には解らなかった。頬の線に沿って何か模様があり、少ししてそれが緑陽生体デザイン社のロゴだと解った。それと同時に彼女のルックスの説明もついたが、それで違和感が解消されることは無かった。
 ミラー越しに視線が合う。
 シャオメイの表情は一瞬空白になり、作った笑みが浮かび、やがて自然な笑みが覆い被さった。宏一は彼女が本心から笑みを浮かべているのか疑問に思った。確かに誰だって、ふと笑みを忘れる時はある。しかし、シャオメイの笑みは。
「それじゃあ、ここらで曲がってみよっか」
 高木は速度を落とさないまま交差点でハンドルを切った。タイヤが鳴る。
「ちょっと、圭、あんた他人を乗せてるのよ」
「平気よ。この車種事故率低いから」
「そうじゃなくてー」
 車は清洲橋通りから蔵前通りを東へ走る。ほんの数分走れば蔵前橋に着くだろう。そのまま行けば小岩へ出た。かつては。
「あー、やっぱり歩かないと駄目みたいだね」
 高木は前を指差す。そこは交差点だったが、橋へ向かう道路は封鎖されていた。オレンジ色のバリケードが一列に並び、横に渡された鉄パイプが補強している。
 高木はT字路を右折すると、車を歩道に寄せて停めた。

 人通りは無かった。歩道に面したオフィスビルはどれもシャッターを降ろしているか、あるいは空っぽのショーウインドーを晒しているかのどちらかだった。無残にもガラスの割られたビルもあったが、持ち主に修理するつもりはないようだった。この川沿いの界隈はいずれ堤防の拡張工事で更地にされる予定なのだ。
「何にもない所だねー」
 シャオメイが言う。
「蔵前っていうから倉庫みたいなもんがあると思ってた」
「江戸時代の話でしょう」
「それってどこの話」
「こ、こ」
 4人はてんでに喋りながら角を曲がる。歩道にもやはり鉄パイプが渡されていたが、彼らはそれをまたいだりくぐったりして通り過ぎた。旧蔵前警察署と元郵便局の前を歩く。警察署の建物には「頼るなバック、締めようベルト」という交通安全スローガンの書かれた垂れ幕がまださがっていた。しかし、警察署に人影は無い。人が使っている気配も無かった。廃屋だった。
 歩道の真ん中に自転車が転がっていた。前輪のリムが歪み、ハンドルバーもキャリパーもチェーンも錆びて乾いた血の色に染まっていた。たぶん3年前からここに捨てられているに違いない。
 宏一は自転車を軽く蹴飛ばし、ゆるやかな坂を登っていった。郵便局の隣りは更地になっていた。道を挟んで反対側も建物が無い。更地では紫水工機と書かれたショベルカーが枯れかけた雑草の中で佇んでいた。
「工事してるわけじゃなかったのね」
 高木が言った。
「だって、金が無いもん」麻奈が答える。「都はとっくに破産してたし、国だって首が回らない。うち(緑陽)や紫水、蒼山が金や物を出すっていってるけど、ごねてるでしょ。メンツだか何だか知らないけど」
「そんなニュースがあったっけ。馬鹿よね。出してくれるなら貰っとけばいいのに」
 宏一は二人の会話を醒めた気分で聞き流していた。工事をするにせよしないにせよ、それは此岸の話であって、彼岸の話ではないのだ。
 一行は橋のたもとに着いた。橋の上は工事作業のために欄干も街灯も取り払われ、鋼材や作業機械が乱雑に置かれたままになっていて、通り抜けられる雰囲気では無かった。
 宏一は川下の方を見やった。波打つ川面がひたひたと堤防の縁を叩いていた。かつて堤防の外側にあったという親水公園は、今は影も形もない。潮位が三メートル上昇するのに比べ、陸地が三メートル隆起するのは生半なことではない。誰もがこれほど急激な海面上昇を予想してはいなかった。
 堤防の拡張工事は神田川の水門から始まっているという話だったが、まだ蔵前橋までは届いていなかった。突貫工事で補強されただけの堤防は薄っぺらなコンクリートの壁で、見るからに頼りなげだった。
「こうして見ると、何も変わってないみたいよね」高木が宏一の傍らに立って言った。「あの歩道橋みたいのが邪魔ね‥‥。あの屋根は国技館でしょう」
 宏一は頷いた。
「信じられない。向うが水浸しだなんて」
 しかしそれは事実だった。大田区、品川区、港区、江戸川区、墨田区、千代田区の一部、中央区、江東区の全域が一夜にして冠水したのだ。潮位の上昇と地震による水門や堤防の決壊が原因だった。水はまたたくまに街を覆い、地下鉄を浸水させた。首都高も都心部で寸断されている。品川駅は池のようになっていて復旧の目処は立っていない。水辺に建設されていた下水処理施設も冠水し、広域に渡って下水道施設が使用不能になっていた。
 火災の方がまだましだと、誰かがテレビで言っていたのを宏一は覚えている。火災なら再利用可能な土地は残るからだ。もちろん暴論だった。火災だったら死者の数はもっと増えていただろう。
 たった一回の地震で何もかもが変わってしまった。宏一の世界は彼岸に沈んだ。向こう岸の景色は震災前と変わらない。しかしあれは幻だ。良く見ればそれが解る。川と平行に走る首都高6号線に車の姿が無いのはなぜだ。下流にかかる総武線の鉄橋が静かなのはなぜだ。
 宏一は唇を噛みしめた。
「寒いね、ここ‥‥」
 高木は続けて何か言いかけるが、麻奈に肩を叩かれると口をつぐんだ。
「‥‥本当に一瞬だったんですよ」宏一は誰にも振り向かず、彼岸を見つめたまま話した。「グラッと来て、やんで、起きて、窓を開けたら地面がそこにあって、それがなぜだか考えずに外にでたら、一階が潰れてた。家族は一階に寝てた。その時にはもうそこらじゅう水浸しでね。どんどん深くなっていた。そこにたまたま猫を乗っけたごみ箱が流れてきて、僕はそれを捕まえた。猫は肩に乗っけた。爪を立ててしがみつかれた。そのまま錦糸町の駅まで泳いでいった。それで助かった。駅ビルから服を持ってきてくれた人がいて、それに着替えた。総武快速は止まっていたけど、各駅はまだなんとか動いていて、三日ぐらい駅で寝泊まりした。トイレが使えなかったから、外に垂れ流しでね。臭かった。たまに死体が流れてくることがあった。誰かが船で出て、駅から垂らした紐にゆわえてひっぱり上げて、電車で運んでもらった。僕はいい加減待つのを止めて水の無い所へ行くことにした。猫は置いていった。親子だった。どっかの子供がやたら気に入っていたから餌には困らなかったと思う。僕は上野へ行った。上野は高台だったから。残った人もいた。いづれ水が引くと信じてた。でも、あそこが海面下だってことも皆知ってた。誰も言わなかったけど。僕も言わなかった。残るのはその人の自由だから」
 宏一はそこで言葉を切った。身じろぎ一つしなかった。
「大学の友達の家も沈んだんだ」
 言ってから高木は後悔した。宏一は振り返らなかった。
 シャオメイが何事かを麻奈に耳打ちし、麻奈は吹き出した。今度は麻奈が高木に耳打ちする。
「何言ってんの。馬鹿」
 高木が怒ったように言い、宏一が振り向いた。相変わらず静かな表情をしていた。
「何でも無いのよ」高木が慌てて言う。「ねえ、車に戻らない? 冷えるわ」
 宏一は頷いた。これ以上付き合わせるのも悪い。

 車は昭和通りから日光街道に入った。北千住までもう間もなく着く。行きと違って後部シートは静かだった。麻奈とシャオメイは何やら含んだ笑みを浮かべて先に降りてしまっていたからだ。二人は意味ありげな視線を宏一に向けていたが、別段ありがたいとは思わなかった。むっつりと黙ったまま助手席におさまっている。高木の方は困惑したような表情をしていた。
 千住大橋のたもとで赤信号につかまった。
「‥‥ねえ」沈黙に耐え切れず高木が口を開く。「川で麻奈が何て言ったと思う」
 宏一は黙って高木を見つめた。解るはずがない。
「胸で泣かせてあげなよって。‥‥そうする? わたしは〈K〉じゃないかもしれないけど」
 宏一はほんの少しだけ微笑んだ。泣きたくなっていることを自覚してはいたが、甘えたくはなかった。
「別にいいです。‥‥でも、ありがとう」
 宏一は答えた。圭は‥‥圭だった。でも、それでいいと彼は思った。Kであろうとなかろうと、今、隣に圭がいることが重要だった。この時間を宏一は大切にしたかった。
 信号が変り、高木はアクセルを踏みこむ。宏一は高木の横顔越しに、流れ去る景色を見ていた。
「何?」
 高木が前を見たまま微笑みを浮かべる。
「何でもない」
 宏一は答え、そして、前に向き直った。時は流れる。元より留まるわけもない。


'Cutting Edge'
Satoshi Saitou
Create : 1996.02.01
Publish: 2010.05.23
Edition: 4
Copyright (c) 1996-2010 Satoshi Saitou. All rights reserved.