カッティングエッジ
§Episode-3:序列

 昭和通りを北上し、言問い通りを横切ったところで、ナビゲーションシステムの情報ソースがTYISP(京浜工業帯警察)からNKTIC(北関東交通情報センター)に切り替わった。
「高木さん、無理にでも誘えばよかったすね」
 助手席の菱井が言う。大下は低く唸った。
「大下さん強引だから」
「強引か? あれで」
 菱井は気まずく黙り込んだ。
「‥‥たぶん。次はもうちょっとうまく誘ってみましょうよ」
「菱さんに任せるよ」
「格ゲーにハマってる娘を誘える自信なんてないすけどね」
 赤信号で止まる。
「格ゲー?」
「カッティング・エッジ。格闘ゲーム。略して格ゲー。北千住じゃけっこう有名らしいですよ。〈北千住のK〉とか何とか」
「何だかな。C.E(カッティング・エッジ〉なら知ってるよ。あんなおもちゃのどこが格闘なんだか。格闘ってのは、生身で向き合って、相手の感情を読んで、技を繰り出して、それで始めて成り立つんだ。格闘・技、なんだぞ。あんなのガキの御遊びだ。でも彼女がねぇ。菱さん、なんで知ってるんだ」
「こないだ〈マッシュポテト〉にいるのを見かけたんですよ。うちのコンビニからちょっと離れたところにある方の」
 信号が変わり、大下はアクセルを踏み込む。二人の身体がバケットシートに押し付けられた。
「宏一と一緒だったんすけどね」
「宏一だって?」
「意外や意外、てなもんすね」
「それが理由だったのかねぇ」
「さぁ」
 大下は眉をわずかにひそめた。

『ブラッシュアップユアソウル』
 レンダリングされた世界が広がる。大下は馴染まない身体感覚に戸惑いながら、ステージへ歩く。実身の感覚に引きずられて身体を動かしすぎ、仮身がオーバーアクションを起す。ゲーム機は各種パラメータを自動補正し、彼がゲーム空間内で自在に歩けるよう整えた。補正されたパラメータは大下の網膜パターンと共にLLGW社のサーバーに記録され、以後どの店のカッティング・エッジを使っても最初からパラメータ補正された状態でプレイすることができる。
『カモォン、ガイ!』
 野太く、間延びした声。
 ステージの向うにはブルとかいうキャラクターがいた。合成された映像でしかないのに、その存在感はずいぶんとリアルだった。だけど、と大下は思う。とどのつまりは人形でしかない。コンピューターが操る人形。
 大下が憑依しているのは〈アキラ〉だった。女の仮身を使うのはみっともない気がしたし、外人の仮身を使うのはシャクだった。残るのは〈アキラ〉しかない。それに見るからに強そうなルックスも彼の気に入ったところだった。
 大下は最初に一発かますつもりで右手を脇腹に引き付けた。その体勢のまま〈ブル〉に突っ込む。最初にキメちまうことが肝心なんだ。大下は思っていた。そうすりゃ向うの威勢も消える。最初の一撃で戦意を喪失させる。それが肝心。
 しかし〈ブル〉は大下の行動に的確な反応を示した。〈ブル〉は直立した状態で素早く右腿を胸に引き付けると、そのまま前へ倒れ込むようにし、両の掌を前方に向けて腕を伸ばした。大下の胸元をブルの両手が直撃する。〈ブル〉は左足で地面を蹴るようにして力を加えており、大下が憑依する〈アキラ〉は簡単に後ろ向きに飛ばされた。
 大下は胸に強い衝撃を感じた。息が詰まるほどではないが衝撃は衝撃だった。そして背中を打つ。大下は自分が空を見上げていることに気が付いた。
 くそったれめ。
 悔しさに顔が歪む。ウォーターバッグの圧力がゆるみ、大下は立ち上がった。〈ブル〉はすかさず足払いをかける。大下は何とかこらえたが、顔面に繰り出されるパンチにバランスを崩し、ハイキックでとどめを刺された。
 大下は再び転倒した。

「くそったれ。いんちきじゃねぇか」
 大下はぼやいた。人目がなければ怒鳴っていただろう。
「ゲームですよ。ゲーム。ただのゲーム」
 菱井が言う。傍らのギャラリー用モニターの中で大下よりは遥かに腕が優るプレイヤーの試合が展開されていた。滑らかな動き、的確な攻撃、確実な防御。
「宏一はこの店じゃKOH1とか名乗っていて、結構有名だとか」
 菱井の言葉が大下の神経を逆なでする。
「菱さん、あんた、どんくらいの腕なんだ」
「初心者もいいとこですよ」菱井は手をひらひらと泳がせた。「宏一の奴はこの店じゃ〈マスター〉で通ってんですが、自分は全然。でも、まぁ大下さんに比べればずっとましでしょうね」
「ちょい教えてくれねーかな」
 息も荒く大下は言う。
「コクーンだと教えるってもちょっと難しいんすけどね。でも、いいすよ。対戦モードで自分がやる動きを真似てみてくんさい。でも、その前にちょっとしたレクチャからいきましょか」
 二人はフロアの隅にパイプ椅子を二つ見つけ、そこに腰を降ろした。店内に溢れる音も、ここでは心持ち小さかった。
「じゃ、いいすか、大下さん。まず覚えとかなきゃいけないのは‥‥」
 大下はバイト先でも年齢的にも後輩である菱井の言葉に素直に聞き入った。

 パンチ。パンチ、パンチ、パンチ。キック。キック、キック、キック。適当に飛び上がり、膝で撃つ。運が良ければ相手の首を脚で挟み、そのままねじり倒せる。コツは相手に攻撃の隙を与えないこと。一回一回が僅かなダメージでも、それを続ければ相手は確実に倒れる。倒れてしまえば、あとは大技をかけてキメる。ジャンピング・ニードロップ、両手を組んで相手が起き上がったところをカウンターで延髄に打ち下ろす。顔面に回し蹴りを入れる。あるいはパンチを打ち続け、相手をステージから押し出してしまってもいい。
 大下は菱井相手の練習を続けるうちに、自分なりの「勝ちパターン」を編み出していた。憑依するキャラクターは〈アキラ〉から〈アレック〉に乗り換えた。元SASの格闘エキスパートというプロフィールを持つ〈アレック〉は体格的に力押しには申し分ないキャラクターだったし、ウォーターバッグのちょっとした圧力など苦にもしない大下自身の力が〈アレック〉には向いていた。
 試合を開始して25秒。大下の眼前に菱井が憑依している〈ゲオルグ〉――ウクライナ出身の色男――がだらしなく横たわっていた。
『ユウ、ウィン』
 この言葉を聞くのは何度目だ。大下は思う。彼の二つ名――North-West-Smithはいつのまにか北千住界隈に知られるようになっていた。「クルードな奴」として。大下は〈クルード〉の意味をまだ知らない。

 大下が缶やペットボトルを陳列する冷蔵棚裏のワークスペース(大下達は「冷安室」と呼んでいた)でコーヒー缶を棚に並べていると、坂下が帰り支度をしている姿が目に入った。
「宏一、もう上がりかぁ?」
「ええ」と坂下。「お先にぃ」
「ちょ、待っててくんないかぁ。今日は俺、早ひけなんだぁ」
「いいっすよ」
 大下は棚いっぱいに並べてしまうと冷蔵室を出た。店のロゴ入りの前掛けを外して壁にかける。坂下は壁によりかかって大下が店を出る準備を終えるのを待っていた。表情はなく、何を思っているのか大下には見当もつかなかった。もっとも、何を思っているかなどあまり気にもしていないが。
「待たせたな」
「いいえ。全然」
 坂下はぎこちなく微笑んだ。そのわざとらしい表情が大下のカンに障る。
「ま、出ようや」
 表は風で肌寒かった。立秋はとうに過ぎ、影はどんどん長くなる。
「ちょっと、寄って行きたいとこがあんだけど、つきあってくれっかな」
「‥‥どこです」
「マッシュポテト」
 坂下は微笑んだ。
「いいすよ」それから、ふと思い付いたように付け加える。「大下さん、アクショントークを使えます?」
「なんだ、そりゃ」
「いや、なんでもないです」
 坂下はぎこちなく微笑む。

 球形の空間に並ぶ、幾つもあるパネルの一枚に近づく。パネルの中には遺跡のような景色。視点はそのままパネルの中に入り込み、気が付けば景色の中にいる。いつものシークエンス。
『ブラッシュアップユアソウル』
 ――大下さん、アクショントークを使えます?
 何だそれ、と聞き返した時の奴の顔。俺を値踏みしやがった。
 大下はマスクの下で深呼吸する。
 まあ、どれほどの値がついたのか、後で聞かせてもらうさ。安くつけてりゃ後悔することになる。
 大下は人気のない遺跡のような場所に立っていた。お馴染みの光景。今日は曇っていた。大下は石組みのステージに上がる。ステージの向うにはアキラがいた。坂下が憑依したキャラクター。
 アキラか。大下は会心の笑みを浮かべる。アキラはアレックのパワーには勝てない。アキラは使えないぜ。
 二人はゆっくりと近づく。アキラは眉を吊り上げ、警戒心をあからさまにしているが、その表情は当然坂下のものではない。デザインされた表情だ。偽の感情。
 セットポジションに立つ。どこからともなく響く、例の声。
『レディ‥‥』大下は全身を緊張させた。先制攻撃が大事だ。『ゴウ』
 大下は突進した。半身をひねり、右手を引いて拳を固める。最初の一撃で最大のダメージを与えるつもりだった。
 リーチが届く範囲に踏み込む。左足でステージを踏みしめ、右の拳を繰り出す。
 アキラ――坂下はその一撃を避けずに受けて立った。左手で胸の前を払うように素早く動かし、アレック――大下の右手首を掴む。坂下は掴んだまま腕を後ろへ引くと同時に、右腕を曲げ、肘を前に突き出した。
 大下は胸に強い衝撃を受けた。アキラの右肘がアレックの胸を強打していた。ウォーターバッグに圧力が加わり、硬直する。坂下は左手を離すと両手を頭上で組み、そのまま叩き降ろした。延髄の辺りをしたたかに打ち込まれ、アレックはたまらず膝を折る。大下にはどうすることもできなかった。ウォーターバッグはぎりぎりと彼の身体を締め付け、次の行動に出ることを許さない。アレックは両手を地面につこうとしていた。
 その間にアキラはすり足で半歩下がり、回し蹴りでアレックの頭部を狙った。
 首をゆさぶる衝撃。
 くそったれめ。大下の顔が歪む。いい気になるんじゃねえ。
 ウォーターバッグからの圧力が緩む。大下はその瞬間を逃さなかった。すかさず立ち上がる。目の前にアキラがいた。大下は体当たりをかけようとした。しかし次の瞬間、アキラが視界から消える。踵に衝撃。次いで背中に。
  大下は空を見上げていた。そして自分に向かって飛び降りてくるアキラの姿を見た。身体は動かなかった。

 繭が開く。
 大下はいたたまれない思いで繭を出た。結局、坂下から一本も取ることができなかった。大下の攻撃は全て見切られていた。
 実戦なら、俺が勝ったはずだ。
 大下は思った。しかし、実際にそんなことはできなかった。たかがゲームに負けたぐらいで手を出すなんてことは、彼のプライドが許さなかった。しかし、負けは負けであり、その事実が彼に重くのしかかっていた。
 坂下を納めた繭が開いた。坂下は繭から出ると首筋をもんだ。そして相変わらずの無表情で大下を見る。
 ――格が違うってか。大下は彼の表情をそう読んだ。
「大したもんだな」
 大下は精いっぱい感心したように言った。坂下は照れ臭そうに微笑む。
「馴れてるから」
「いつもアキラを使っているのか」
「ええ」
「完璧にやられたよ。でも、実際の格闘だとああは‥‥」
 いかないんだぜ、知ってるか。大下がそう言おうとしたとき、聞きなれた声が二人を呼んだ。
「大下さんに宏一君じゃない」
 高木だった。
「えー、大下さんもゲームするんだぁ。何してたの。やっぱり〈カッティング・エッジ〉?」
 大下は思わず頷いた。
「で、ここに宏一君がいるってことは、ひょっとして対戦とかしてたりする?」
「してたよ」
 坂下が答えた。
「どっちが勝ったの? 何となく見当はつくけど。大下さんには悪いけど」
「‥‥宏一だよ」
 大下は仕方なく答えた。
「宏一君はこの店じゃトップクラスよ。テクニカルプレイヤーなんだから。宏一君も多少は手加減してあげないと」
「高木さんも、でしょ」
 と坂下。
「ここじゃ〈K〉でいいってば。でも大下さんも結構運がいいかも。宏一君に直にてほどきを受けるなんて、普通できないわよ。人付き合い悪いから」
「でも、結局、馴れだよ」
「うまい人に教えてもらった方が馴れも早いってことかな‥‥」
 ああ、もう解った。解ったよ。大下は二人の会話にいたたまれなくなっていた。俺は初心者だ。そう言えばいいんだろ。
 大下は愛想笑いを浮かべた。
「まぁ、まだ初心者だからな。これから時々教えてくれよ。宏一」
 くそ。


'Cutting Edge'
Satoshi Saitou
Create : 1996.02.01
Publish: 2010.05.23
Edition: 4
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