拳で語る。
手首をひねり、何度か打ち合う。その打ち合いの型にそれぞれ意味がある。アクション・トーク。声にならない会話が交わされる。手話では無い。手話をこなせるほどゲームのインターフェースは出来ていない。クリハラ・プロトコルと呼ばれるベーシックな型のやりとりを双方のインスピレーションが補うことでコミュニケーションが成り立つ。
――調子。いいね。
――ネガティブ。普段。同じ。
――本気。出す。
――ポジティヴ。
牽制で軽く打ち込み、隙が生まれたところで大きく踏み込む。右足から強い衝撃が伝わる。右肘を相手の懐へ叩き込む。しかし、相手――クリスは身を横にかわす。
――甘い。
宏一は後ろに飛びづさる。クリス――Kはさっきまで宏一の頭があった空間にハイキックを繰り出していた。全てお見通しだ。
繭を出て、かりそめのペルソナを失った宏一は丸裸になったような心細さを感じた。自分が何もできない無力な人間のように思える。
実際、あの時彼は何もできなかった。震災で水門が崩れ、埋め立て地が水没した日、彼は潰れた家の下敷きになった家族を見捨てた。見捨てる他なかった。走るように侵入した海水が、すでに膝を濡らしていたのだから。永代橋へ続く広い道路は既に河のようだった。近所にあるコンビニのごみ箱が流れてきたことを宏一は覚えている。ごみ箱の上には野良猫の親子が乗っていた。母猫も子猫も四つの脚をふんばって、おびえたように周囲を見回していた。
生きるは難く、死ぬは易しい。
モニターの中に繰り広げられる擬似的な暴力、再生産される死。VRゲームがその臨場感とリアリティ故に批判されているのを宏一は知っていたが、彼にしてみればその批判は的外れもはなはだしい。暴力と死は現実の一要素なのだから。現実を体感して何が悪い。その現実を知らない世界こそ仮想現実に他ならない。
また一つ繭が開く。高木が現実へ滑り落ちる。
「悪いわね。またポイント稼がせてもらったわね」
高木が言う。宏一は肩をすくめて見せた。――気にしなくていいよ。
「でも、CEにああいう楽しみかたがあるなんてね。ただ相手をぶちのめすだけのゲームだと思っていたから」
宏一は高木に案内されるまま通りを歩いていた。遠くで、近くで、繰り返し杭を打つ音がする。ドリルの鉄板に穴をうがつ音がしている。溶接する音が聞こえる。街の新陳代謝が進む音。
「宏一君て、実はテレパシーとか使えるんじゃないの? なんだかわたしの手の内を読んでいるみたいにガードされたし。わたしが出したコンビネーション、覚えてる? 足元に蹴りを二度いれてから左の打ち込みを一回いれて、身体を捻って右手で掌底を出したでしょう。あれを全部受けられるとは思わなかった。自信があったのよ。あのシーケンス。完全に防がれたのってあれが初めて」
高木は宏一をとある雑居ビルへ導く。シースルーのエレベーターに乗って12階へ。エレベーターが上昇すると、統合工事が進む北千住駅のコンプレックスビルディングが見えた。規模の点で横浜駅のそれには遠く及ばないが、完成すれば横浜、幕張に次ぐビジネス拠点となる。
軽やかなベルが鳴って、エレベーターが止まった。扉が開き、二人は外へ出る。そこはもう喫茶店の店内だった。コーヒーの香りが漂う。
「良く来るのよ。ここ」
ふうん、と宏一は頷く。高木は窓際の空席を見つけた。白いブラウスに黒のショートスカートとタイツという装いのウェイトレスがテーブルに近づく。手にした盆にはミネラルウォーターを注いだグラスが二つ。おしぼりが二つ。
ウェイトレスはグラスをテーブルの上に並べた。おしぼりを併せて置く。
「お決まりでしょうか」
銀色の盆を身体の前に構えてウェイトレスが訊いた。
「アール・グレイ。‥‥宏一君は」
宏一はおもむろにパウチされたメニューを取り出してしばし眺め、そしてアイスコーヒーを指差した。
「アール・グレイと940ブレンドのアイスですね。かしこまりました」
ウェイトレスは靴音を立ててカウンターへ戻っていった。
黒い大理石のテーブルに沈黙が降りる。宏一は何を言って良いのか解らず、つい、と外に目をやった。
窓の向こうにはビルの尾根が幾重にも重なって地平線まで続いている。空には筆で引いたように伸びる白い雲。遠く、高く、一羽の鳥が飛んでいる。風に抗っているのか、奇妙な飛びかたをしていた。
「そっか、宏一君はあっちの方に住んでいたのよね」
え、と宏一は高木を見る。彼女も窓の外を見ていた。
「〈難民〉だって、大下さん達から聞いたわ」独り言のように続ける。「もう三年‥‥それとも、まだ三年かしら。あの時わたしは学生になりたての頃でね。実家は霞ケ浦の方なの。下宿に入って間も無い頃で、あの地震でしょう。とにかくびっくりして実家に電話しようとしたのだけど、全然通じなくて。輻輳? とか言うんでしょう。携帯が全然通じないなんて、東京が壊滅したのかと思ったわ。放送も止まっていたし、ラジオをつけても雑音だらけで、それでもなんでかわからないんだけどラジオ大阪が少しだけ聞こえた。あの時とても心細かったなぁ。辺りの様子が全然わからなくて。そのうち遠くでサイレンが聞こえたり、煙がたちのぼったりして、ああ、本当に終わりなんだ、って思ったの。とりあえずデイパックに着替えと社会保証書詰め込んで、河原の運動公園へアパートの人達と歩いて行ったわ。千住新橋のグランド。そしたら、途中ですれ違った人が、河原は駄目だ、水が来るって言って、最初なんのことだか解らなくて、何度も聞き返したら、埋め立て地が水没したって言われて、川の水位が上がって河原は危険だと言われたのよ。冷静になって考えてみれば、ここまで水が来るはずはないのにね。一応、防潮門は動いたみたいだし。でもその時はそんなことわかんなくて、とにかく堀切へ行こうってことになったわ。結局、堀切へ行く必要はなかったわけで、地震の時とかにありがちなデマだとわかったんだけど、あれだけはデマじゃなかったわけね」
高木は宏一の方に視線を戻した。
「都心が壊滅したっていう。あれだけは本当だったわね。地下鉄は全部水没したし、銀座もお台場も水の底。品川駅が使えるようになるのはまだまだ先だっていうし。結局あの堤防工事は全部無駄だったわけよね」
高木はそれきり口をつぐんだ。
ウェイトレスが盆にポットとカップを乗せて近づいてくる。ヒールが床を打つ。
「お待たせいたしました」
ウェイトレスは盆をテーブルに乗せると、滑らかな動きでカップとポットをテーブルの上へ移した。
「アール・グレイに940ブレンドのコールド。以上で宜しいでしょうか」
「ええ」
「ごゆっくり」
ウェイトレスは軽く頭を下げるとヒールの音を立てて、カウンターの方へ戻っていった。
「ねえ、宏一君」ポットからお茶を注ぎながら高木が言う。「君、全然口きかないのね」
そして、むっとしたように口をつぐむ。
怒らせたかもしれない、と宏一は思った。ロフトベッドに寝転がり、ビューワーが映すコマーシャルを兼ねたメロドラマの再放送を熱意無く見る。
でも、怒らせたからなんだというんだ。元々高木さんとはバイト仲間以上の関係はない。
壁に立てかけたビューワーの上にはCEのキャラクターが勢揃いしたポスターが貼ってある。半年前にマッシュポテトのトーナメントで優勝した時にもらった景品の一つ。まだKがデビューしていなかったころだ。
今またトーナメントがあったとして、どうなるかはわからない。今はKがいる。
K‥‥?
ビューワーの中で、昔流行らされた服を着た――正確には、流行らせるために服を着ていた(二年前だ)――女優が陳腐な科白を吐いている。「でもわたしは」「あなたは」「愛してる」「信じられない」「信じる」「何が本当なの」
Kじゃない。圭だ。高木圭。
しかし宏一には高木とKが結びつかない。Kはあんなにおしゃべりではない。頭では理解している。しかし、高木がKとしてクリスを操っているところを見たわけではない。全ては繭の中に隠れている。
「信じて」
と女優が言う。
――信じられない。
宏一は呟く。
「珍しいわね。宏一君から誘ってくれるなんて。今まで全然誘ってくれなかったじゃない」
宏一にはどこか媚びを含んだ高木の言葉が疎ましくてしかたない。VRハウスの騒音が煩わしさに輪をかける。
「まぁ、とにかく一試合しようよ」
いいわ、と高木は肩をすくめる。
繭の中は現実から切り離された別世界。超並列高速プロセッサにより人間の認知能力を上回る速度でレンダリングされ続ける。左右二通り。両目のパララックスも補正され、完全な奥行き感を保証する。プレイヤーの身体情報はゲーム空間にフィードバックされ、例えば岩壁を触れば、手応え(かなり粗いものだが)が返る。ガラスを叩いて割ることもできる。
宏一はKOH1となり、アキラとなる。身体感覚が変化する。宏一は新しい身体情報に順応している。新しい服を着るように、彼は仮想の身体に入る。
ステージの向うにはクリスがいた。彼女はKであり、圭である、はずだ。相手がKであるということは視覚の隅に目立たなく投影されている情報で確認できる。しかしそれだけのことだ。それ以上のことは保証されない。誰でもKと名乗ることができる。
『レディ‥‥ゴゥ』
耳元に足音と風の音。もしかしたら相手の息遣いも。
軽く拳を打ち合わせる。
――始めますよ。
――ポジティブ。
二人の打ち合いはそろそろ演舞の域に達しようとしている。宏一もKも相手の手の内が読めている。攻める型と受ける型。滑らかに連続する技。しかし、所詮は格闘ゲームというシステムの中にいることに変りなく、打ち合っていればどちらかが倒れる。時間の制限もある。
宏一は〈アクション・トーク〉の乏しい語彙を使って必死に考える。それはつい独り言として――つまり、組み手として――表に出そうになる。
――あなた、ポジティブ?
Kの受けがぎこちなくなる。
――意味不明
――あなた、あなた、ポジティブ? あなた、ポジティブ、あなた。
宏一は焦る。「あなたはあなたですか?」伝えたいことを言葉として組み上げることができない。
――あなた、ポジティブ、あなた? あなた、ポジティブ。わたし、ポジティブ。わたし、キック、終了、叩く、1、ポジティブ。
それは咄嗟に出た「言葉」だった。Kick,Over,Hit,1――KOH1。宏一は3度繰り返す。Kが返す。
――わたし、キック、ポジティブ。
――あなた、キック、ポジティブ。キック、テクニカル、あなた、テクニカル、攻撃、キック、攻撃、テクニカル、中、ネガティブ、テクニカル、攻撃、キック、攻撃、行く、中、ポジティブ、ポジティブ? ポジティブ? ポジティブ?
Kの動きが止まる。宏一は待った。持ち時間が消費されている。あまりに長引けば、引き分けとしてゲームは終る。
Kが動く。
――あなた、わたし、ポジティブ、わたし、ネガティブ?
シンタックスを創りながらの会話。宏一には自信がない。Kが同じ構文を使っているのかも解らない。それでも宏一が作った構文で答える他ない。
――わたし、あなた、ポジティブ、あなた、ネガティブ、ポジティブ、ネガティブ。
「あなたはあなたなのか、あなたでないのか」――宏一は泣きたくなる。「疑わしい」という語彙が無い。伝わっているかどうかすら判らない。
――あなた、ネガティブ? わたし、ポジティブ、わたし。
自信がないまま続く会話。
――わたし、ネガティブ、ポジティブ、ネガティブ。
Kは動きを止めた。クリスの表情は闘争心むきだしだが、動作がない。Kには闘うつもりがない。そしてタイムアウト前に、クリスがゲーム空間から掻き消えた。
Kはハードブレークした。つまり、繭を出た。
宏一もハードブレークする。繭が開ききるのももどかしく外へ出る。
高木はすでに繭を出ていた。両手を腰に当て、モニターを見上げている。宏一が近づくと、くるりと振り返った。
「‥‥あれは、どういうこと? わたしが〈K〉でないと?」
宏一は何と答えてよいのか迷う。
「お願い、聞かせて。君は何と言いたかったの?」
高木の表情は硬かった。
「何かを伝えたかったのでしょう?」
「わからない」
「何が」
「高木さん、あなたが〈K〉なのか。あなたは僕が〈KOH1〉だとなぜ思うんです」
「なぜって‥‥君がそう言ったのよ」
「なぜそれが本当だと?」
「嘘なの?」
「違います」
「どういうこと?」
「わからない。‥‥僕には誰が誰なのか、判らない。信じられない」
「わたしが〈K〉よ。高木圭。だから〈K〉と名乗った。〈K〉はわたしよ」
高木は言い捨てると宏一の前から歩み去っていった。
宏一は確信が持てないでいた。信じなかったわけではない。宏一は伝えたかった。高木が〈K〉だと信じなかったわけではない。ただ、信じたかったのだ。あの合成された空間の中で。
それだけのことだ。