カッティングエッジ
§Episode-11:羽化(その3)

 坂下が笑っていた。
 大下は何か不思議な気持ちで彼の表情を遠くから眺めていた。坂下はスナック菓子のパッケージをガラス戸棚に並べていた。その横には高木がいて、清涼飲料水のボトルを並べていた。彼女も微笑んでいた。
 大下には二人が姉弟のように見えた。それが不思議だった。
「どうしたんですか」
 木原が訊いた。大下はぎょっとして彼女の方へ振り向いた。咄嗟に答えが出なかった。木原は二人に目をやった。
「ずいぶん仲がいいですよね。あの二人」
 ニキビが幾つか目立つ頬にえくぼができた。大下は頷いた。
「いつの間にやら、って感じだな」
「最近なんですか」
「高木さんが来たのは半年前だったけど、その時は坂下のことは眼中に無いようだったな」
「へぇ。‥‥でも、なんだか面倒見のいい姉と弟、っていう雰囲気ですよね」
 それじゃあ、俺だけじゃなかったのか。大下は思った。他の人にもそう見えているわけだ。
「そうなんだよな」
 ほっとしながら大下は答えた。その時客が入ってきて、その話はそれきりになった。

 大下はここしばらくマッシュポテトには寄っていなかった。大下は坂下のポイントランキングを追い越すことを目指してゲームに励んでいたのだが、坂下はポイントランキングなど意識しておらず、それで張り合いを無くしてしまったからだ。
 しょせんゲームはゲーム、まがいものでしかない。どれだけリアルに見えたとしても、それは幻。繭の中だけの幻想。大下はそう自分に言い聞かせていた。張り合いを失ったとしても、未練が無いわけではなかった。
 大下は講義室正面の多重半透過スクリーンに注意を戻した。半透明のスクリーンには他段分割マトリックス演算による最適化アルゴリズムを用いたデジタルノイズフィルタのブロックダイアグラムが描かれていた。そのグラフィックの向うで、机の向うに腰を降ろした助教授の姿が透けて見えている。
 大下はぼんやりと講義に耳を傾けた。
「‥‥原理的には古典的なノイズキャンセラと変わらない。出力信号でフィルタパラメータにフィードバックをかけてやるわけだ‥‥」
 何となく人付き合いに似ているよな、と大下は思う。とりあえず何かやってみて、結果がまずければやり方を修正する。何か偏見があるようなら、それを取り除く‥‥。
 大下はなぜか苛立ちを覚えた。
 ‥‥俺は偏見なんて持ち合わせちゃいないがな。
 ふと隣りを見ると、見知った顔の同窓生が携帯端末でブラウジングしていた。ゲームメーカのフレッシュレポートらしい。ひょいと首を伸ばしてその表示面を見ると、〈ライフライブゲームウェアハウス〉のロゴが目に入った。以前の大下ならそれを見ても何も感じることはなかっただろうが、今はそれが何であるのか良く知っていた。〈ライフライブゲームウェアハウス〉はカッティングエッジの開発元だ。
 大下がじっと見ていると、持ち主がにやりと笑ってみせた。
「大下も遊ぶことあるのかい」
「たまにな」
 持ち主が携帯端末を大下の方に寄せた。
「国際トーナメント開催だってさ」
 大下はブラウザの表示を読んだ。
 ――カッティングエッジ、セカンドステージ開始。
 見出しにはそうあった。
 それはインターネット経由で世界中の相手と対戦可能なカッティングエッジの特徴を生かしたグローバルなイベントだった。自分の行き付けの店から国際試合に参加できるというのがミソだった。高密度のデータフローを持つ情報ネットワークにつながると〈場所〉が意味を喪う、その典型的な例だった。
 もっとも、いきなり世界大会に参加できるわけではなかった。まずローカルな地区予選があり、国内選抜があり、大陸大会があり、そして世界大会となる。全体で四ヶ月かかる気の長いイベントだった。何段階かの予選や選抜を重ねるのは、イベントとしての面白味を加えることの他に、通信帯域の占有を回避するという技術的な理由もあった。カッティングエッジのプレイヤーは全世界で二億を越えると言われており、それだけの人間が(時差もはねのけて)一斉に国際試合を始めれば、そのデータフローで通信帯域の狭いラインが飽和してしまうことは十分に考えられることだった。
 大下はスケジュールをじっと見つめた。LLGWH社は地区予選を行う資格のある店を指定していた。選定の条件として、保有しているゲームコクーンの台数と、確保してある通信ラインの帯域幅が十分であるか否か、が挙げられていた。千住の方でも何件かの店の名が挙げられており、その中にマッシュポテトの名があった。
 未練がくすぶった。
「大下も出るのか」
「さあ‥‥どうだかね」

 午後5時をまわった頃だが、とっくに暗くなる季節になっていた。風がとても冷たい。そういう季節だった。
 大下が店に入ったとき、菱井はエプロンを手にしていた。
「ちわっす」
「よっ」大下は軽く答えて、壁にかかるエプロンを取った。「菱さん、アレ、知ってるか」
「ああ、もちろんアレですか‥‥って、何のことです」
「カッティングエッジの」
「セカンドステージのことですか」
「それ」
 その時、木原が勢い良く裏口の扉を開けて入ってきた。
「こんばんわぁ」
「寒いから早くしめて」
「あ、すみませぇん」
「早く中に入ろう。おばさん達、じれてるぜ。きっと」
 菱井がそう言い、三人はあたふたとフロアに入る。

「セカンドステージって何の話です?」
 レジに立って客をさばく間をぬって、木原が訊いた。
「ゲームの話だよ」
「へえ、大下さんもゲームするんですか。あたしもするんですよ。チャーム・コットンとか、クイック・ポイントとか」
 木原の挙げた名前は、大下は聞いたこともなかった。
「そういうのじゃなくて、カッティング・エッジ」
「ああ、あれ」木原は大袈裟に手を振ってみせる。「あたし、あれ苦手なんですよ。なんか、違和感があって」
「違和感?」
「そう。感じません? なんだか違う身体に入るのって馴染めなくって」
「でも、菱さんや、高木さん、坂下もやってるけど、そういう話は聞いたことないな」
「大下さんは?」
「俺は全然」
 木原は困ったような顔つきをした。
「それで、セカンドステージっていうのは」
 大下は乞われるままに説明した。
「皆さん、それにエントリするんですかねぇ」
「さぁ、それはどうだか‥‥」
 その時菱井が品物の整列を終えてレジに戻ってきた。
「セカンドステージの話? 大下さん、エントリするんですよね」
「いや、俺は‥‥」
 正直に言って、大下はカッティングエッジに熱意を感じなくなっていた。どうやっても坂下を越えられないと悟ったことと、自分ののめり込みかたが空回りしていることを思い知らされて以来、すっかり空しくなっていたのだ。未練はあった。それは自覚していたが、積極的にはなれなかった。
「確か、地区予選のスケジュールだとですね」菱井は大下の気持ちを知ってか知らずか喋り続ける。「第一戦が十二月十五日。土曜日だし、その日は皆で休み取って、ゲームした後そのまま飲み会ってのはどうです」
「わ。いいですね」
「どうです」
 大下は困った。浮かれてる木原と、菱井の顔を見ていると、無下に断ることもできなかった。
「いいかもな」
「決まりですね。高木さんと坂下には自分から伝えておきますよ」
「あたし、練習しておかなくちゃ。夜中でもVRハウスって開いてますよね」
「マッシュポテトなら大丈夫だよ」
「今日早速行かなくちゃ」
 その時ちょうど客がレジの前に立ち、その話はそれきりとなった。

 寒風吹きすさぶ深夜だというのに、VRハウス「マッシュポテト」はにぎわっていた。二重のガラス扉をくぐると、叩き付けるような電子音の渦が殺到する。
 店内はゲームキッズがたむろしていた。彼らが遊ぶのは主にスクォードロンゲームで、ギャラリー向けに並ぶディスプレイの中では、岩場を舞台にした機械化歩兵分隊同士の戦闘が繰り広げられていた。
「コクーン、空いてますかね」
 木原が言った。
「大丈夫でしょう。たぶん」
 菱井が騒音に負けないように大声で応えた。
「あっち空いてますよ」
 木原は二人を置いて足早に奥の方へ入っていった。大下と菱井は、仲間のゲーム展開を黙って見守るティーンズの群れを横目で見ながら木原の後を追った。
 木原は開いているコクーンの前に立っていた。ハッチに手をかけて、得意気な笑みをていた。
「じゃあ、あたしからでいいですか」
「どうぞ」
 木原はさっさとコクーンに入った。エアーの抜ける音がして、ハッチが閉じていく。
「大下さん、このモニタですよ」
 菱井が大下をつついた。振り返ると、菱井がずらりと並ぶギャラリー用のモニタの一つを指さしていた。そのモニターには路地裏のような光景が映っていた。東京でないことだけはわかった。ビデオで見るニューヨークの通りに似ている。通りは無人だった。
 その通りの向うからリーが現れた。カメラがリーの後ろへ回り込む。同時にパンダウンしながらクレーンアップし、通りの反対側に立っている男を捉えた。アレックだった。望遠で撮ったローアングルのカットに切り替わる。パースペクティブが畳み込まれている。アレックのアップ。口パク。
「いきなりアレックが相手か」
「いや、大丈夫でしょう」
 大下は不思議そうに菱井を見やった。菱井は軽く肩をすくめて見せた。
「CPU戦だから、最初の相手はヌルいんですよ。そういう風に調整されるんです」
 モニタの中ではリーとアレックの格闘が始まった。
 〈リー〉――木原はまっすぐにアレックにつっこみ、盲滅法に拳を振り回している。アレックにダメージを与えているのは数回に1回程度。アレックの方は打たれながらも確実に反撃の一打を繰り出している。
「無茶苦茶だな」
「そうですね。――でも、大下さんのスタイルと似てますよ」
「冗談だろ」
「いえ。あんな風ですよ」
 モニタの中でアレックはリーの後ろに回り込み、首に腕をまわすと足を払った。リーはあおむけに倒れ後頭部を打った。リーは、手足が痙攣したように震えた後、動かなくなった。
 ハッチが開いて木原が出てくる。
「へへえ。負けちゃいました」
「じゃ、次、俺でいいですね」
 菱井がコクーンに入る。大下は木原の顔を盗み見た。彼女の顔は上気していた。
「やっぱりむずかしいですね。あれ」
 木原はモニタを見上げながら言った。その表情は嬉しそうだった。
「何です?」
 大下はすこしためらってから答えた。
「負けたのに嬉しそうだからさ」
「だって、楽しいじゃないですか」
「負けたのに?」
「勝ち負けとは別なんですよ。キャラクターに憑依してシネマの登場人物みたいに動き回れるでしょう。そのことが楽しいんです。ただ、何となく違和感があるのが気になるけど」
「‥‥俺は勝てないと楽しめないなぁ」
「それ、解りますよ。でも、楽しむためにお金を払っているんだもん。そういうのにこだわるのって、損だ、ってあたしは思うんです」
 大下は坂下が以前言ったことを思い出していた。木原の言ったことは、どことなく坂下の言ったことと似ていた。坂下は順位にはこだわってはいなかった。
「‥‥ただ、あたしは」と、木原は続けた。「別にこだわってプレイしていてもいいとは思うんです。人それぞれってことで。それを他人に押し付けたりしなければ、それで楽しめると思うんですよ」
 大下はなんとなく救われたような気分になった。


'Cutting Edge'
Satoshi Saitou
Create : 1996.02.01
Publish: 2010.05.23
Edition: 4
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