「それじゃ、お先あがります」
宏一は前掛けを壁のフックにひっかけると軽く手を挙げて挨拶した。
冷蔵室と倉庫の間にあるちょっとした空間に宏一のバイト仲間が二人――大下と菱井がたむろしていた。
「おう。おっつかれっさん」
先輩格の大下が挨拶を返す。
宏一は微笑んでみせると、裏口のアルミ張りの扉を開けて外に出た。暦の上で夏は終わっていたが、冷蔵室の冷気を感じていた店内に比べると表はまだ暑かった。店の裏手は十二階立ての新築マンションで、敷地の間は肩の高さ程のブロック塀で仕切られている。宏一はブロック塀沿いに店の表へ向かった。途中、猫が物陰からみゃあと鳴いて塀の上に飛び上がり、彼を驚かせた。
宏一は店の前にある駐車場に出ると、店をふり返り、ウィンドウ越しにレジについているバイト仲間の高木に会釈した。彼女も軽く会釈を返してきた。その表情は朗らかだが、宏一の耳には、先日冷蔵室で補充をしていた時に聞こえてきた会話が残っている。
『――彼って、どうも話しにくいのよね』
『宏一だろ。なんつーか、声をかけにくいところはあるな』
『あいつは〈難民〉だからな。まだ馴れないんだろ』
『〈難民〉だったの。‥‥カワイソウ』
――よしてくれ。
宏一は踵を返すと店の敷地を出た。狭い通りを足早に歩く。古い建物の取り壊しと、新しいマンションや雑居ビルの建設工事が目に付く。宏一の足はVRハウス〈マッシュポテト〉に向かっていた。
一階に不動産屋が入ったマンションの角を曲がるとそこに〈マッシュポテト〉はあった。宏一はこの界隈が好きだった。震災前に住んでいた所にも〈マッシュポテト〉のチェーン店はあり、その場所と雰囲気が似ていた。
『――家が沈んだのかな』
『そうでなきゃ〈難民〉にはならないだろ』
『でもないらしいぜ。補助金が出るってんでうまくやった奴等もいるって話だし』
――沈んだんだ。間違いなく。
忘れてなどいない。忘れることなどできない。宏一は鮮明に思い出すことができる。その記憶は影のように寄り添う。
――下から激しく突き上げるような揺れ。突然身体が浮き上がり、叩き付けられ、床に転がる。何が起きたのか解らなかった。揺れが収まり、ようやく起き上がって窓を開けると、二階のはずなのに、すぐそこに地面があった。半ば朦朧としたまま窓から抜け出し、何を考えることもできずに敷地を出た。すでに道路は川のようだった。
一階に両親が寝ていたことを思い出したのは、膝まで塩水に浸かった後だった。
〈マッシュポテト〉のガラスでできた二重扉を抜ける。ギャラリー向けのスピーカーから流れる低音のSEで腹が震えた。爆発音と破砕音。銃声と悲鳴。ハイドロエンジンの爆音。ミサイルの飛翔音。暴力的なノイズに対抗してファンタジーゲームが大音量で幻想的なサウンドを垂れ流す。この店が特別というわけではない。どのVRハウスも同じ様なもの。
店内には艶のある黒い繭が幾つも並んでいた。緑陽エンターテイメントシステムズ社の「ブラック・オニクス」と呼ばれるゲームコクーン。「ブラック・オニクス」はゲームの名称では無い。ゲームが動くプラットフォームにつけられた名前だ。ワックスがかけられたそれらクロームの繭は店内両側の壁沿いに向かい合って並んでいる。高さ2メートルほど。繭の列と平行に、天井にはステンレススチールのパイプがわたされ、繭と同じ数のフラットディスプレイが取り付けられている。それぞれのディスプレイにはそれぞれのゲームコクーンの中で進行しているゲームシーンが映し出されていた。
宏一は開いた繭を見つけると背中から中に入った。繭の内側は液体の詰まったウォーターバックが敷き詰められており、宏一の体型に合わせて密着するように身体を受け止めた。内装の一部が割れ、レジスターが彼の前にせり出す。宏一は胸ポケットから緑陽東京銀行与信のEM(電子マネー)カードを取り出すと、レジスターのスロットに差し込んだ。レジスターが戻るのと平行して、コクーンの蓋が閉じはじめる。
宏一は両手を降ろした位置にあるデータグローブに腕を突っ込んだ。肘をジョイントパットに押しあてる。靴を足元のフックに引っかけると、バインダが足首を固定した。蓋が閉まりきると、角膜投影式のディスプレイと呼吸装置をセットにしたマスクが顔に当たる。ディスプレイ装置は宏一の虹彩位置に合わせて光軸調整をし、同時に網膜パターンを読み取って個人認証を行う。その情報は与信審査会社へ送られ、EMカードの支払与信確認に使われた。宏一はEMカードに円建てではなく、緑陽クーポン建ての設定をしてあった。
マスクからエアーが供給される。マスクの縁にもウォーターバックが仕込まれていて、宏一の顔の凹凸に合わせて密閉を確保していた。蓋の内側もやはりウォーターバックで覆われていて、宏一の前半身を押え込む。
蓋が閉じきるとウォーターバックに圧力が加った。データグローブ内や、足首、膝、腰、肘のジョイントパッド部分にも圧力が加わっている。宏一の身体は繭の中で固定された。
『ウェルカムトゥバトルフィールド』
精密な音場調整のなされた音声が宏一の聴覚を支配する。眼前には広大な空間が広がっていた。彼は無限遠の直径を持つ球形空間の中心に浮かんでいる。全周囲を様々な光景を映し出している無数のパネルが取り巻いていた。それらパネルに映し出された光景はどれもぼやけて曖昧としているが、宏一が特定のパネルに視線を定めると、解像度が上がりシャープになった。限界のあるコクーンの演算速度を有効に生かすための造画処理だった。
「カッティング・エッジ、トレーニング」
宏一は言った。無数にあるパネルの群れからなる球面が上下左右、自在に回転し、停まり、回転し、停まり、そして最後に彼の眼前にあるパネルが急速に近づいてきた。パネルは近づくにつれ大きくなり、やがて彼の視界すべてを覆い隠し、気が付くと彼はパネルに映っていた景色の中にいる。
『ブラッシュアップユアソウル』
虚空から声が響く。宏一は人気のない遺跡のような広場に立っていた。周囲には半ば風化し崩れかけた石の壁がそびえ、円形の広場を囲っている。空は晴れ、高みにある雲が形を変えながら流れていく。広場の中央には正方形のステージがあった。足元と同じ石組みのステージだった。宏一は足を動かす。ステージが近づく。
『カモーン、ボーイ』
ステージを挟んで向う側に、長い金髪を頭の上に結い上げた白人女性がいた。紺のタンクトップに黒のスリム。黒いレザーブーツを履いている。口元にはうっすらと笑みを浮かべていた。
――クリスか。
宏一はクリスのプロフィールを記憶の底から素早く呼び出した。クリスは敏捷な身のこなしと長いリーチがくせものだった。
宏一はステージに上がった。クリスもステージに上がる。次の瞬間、宏一はステージの上でクリスと向き合って構えを取っていた。ウォーターバックとジョイントパッドの圧力が宏一にファイトスターティングの姿勢を強制する。しかし宏一はその圧力に抗うことなく、従順に受け入れる。
『レディ‥‥』またもや虚空からの声。宏一は全身を緊張させる。『ゴウ』
クリスが素早く宏一の懐へ飛び込む。宏一は左肘を当てて食い止め、右の拳を繰り出す。足払いをかけるがそれはかわされ、逆に払われてしまう。宏一は転んだ。ウォーターバッグに衝撃が加えられ、そのショックはそのまま宏一に伝わる。荒い石畳を転がる感覚。
「痛っ」
宏一はうめく。素早く起き上がりたいが、ウォーターバッグに圧力が加わり、身体が重い。わずかにでも身体を動かせば、その動きはウォーターバッグを通してゲーム空間にフィードバックされる。しかし、ホールドする圧力は宏一が身動きすることを許さなかった。クリスがジャンプして自分の腹に蹴り込もうとしている姿が視界の隅に見えた。
宏一はなんとか身をよじり、横に転がった。石畳表面の凹凸に応じた圧力が身体に伝わる。一回転した時、すぐ耳元にクリスが着地する音が聞こえた。ウォーターバッグの圧力が軽くなる。
宏一は足を思い切り動かして、仮想空間の中で跳ね起きた。ちょうどクリスは身を起こすところで、宏一はその顔面を力一杯蹴り上げている。
『アウ』
クリスは大きく身をのけぞらして石畳の上に仰向けに倒れた。
起き上がりざま足払いをかけてくるだろう。
宏一は思った。油断はできない‥‥。
繭が開く。
宏一は昂揚した気分のまま繭を出た。EMカードを受取り、胸ポケットに落とす。〈カッティング・エッジ〉はライフライブゲームウェアハウス(LLGW)社製のリアルライブゲームとして知られている。宏一はこのゲームを長い時間やりこんでいた。
用意された8人の敵は全て倒した。自分もずいぶんダメージを食らったので「プロフェッサー」にはなれなかったが「マスター」の称号はもらった。これで何度目だろう。彼の成績はLLGW社にアウトソーシングされている米国のサーバーに記録されている。
マスターの上にはプロフェッサーがおり、またそれとは別にシネマモードでの「エキストラ」としての参加、そして「アクター」として八人全員のシナリオをクリアするという目標がある。シネマモードで遭遇する敵は、他の宏一と同じ生身の人間が憑依するキャラクターであり、強敵だ。
俺はまだまだだ。宏一は思う。上には上がいる。プレイヤー達はシビアにランキングされる。ゲームコクーンはグローバルなネットワークにぶらさがっており、従ってそのランキングもグローバルな順位となる。プレイヤー達はコンマ何秒早く倒すか、コンマ何ポイント大きなダメージを与えるかを競い合う。世界レベルでは宏一のランクは無いも同然だが、彼が今いる北千住エリアでは、宏一のサイン「KOH1」は有名だ。それと同じく「K」というサインも有名で、彼/彼女のランクは宏一のすぐ一つ上だ。「K」は同じ北千住でも別の店の常連らしく、まだ顔を合わせたことはない。
一度は直に会ってみたい。宏一は思っていた。「K」は好敵手だった。
「宏一君じゃない」
聞きなれた声に呼び止められ、宏一は我に返った。
「ああ、高木さん」
ノイズに負けじと半ば叫び声になる。
「あの後私もひけたんで、来ちゃった。この店は前から気になっていたのよ。別の店ならよく行っていたんだけど。‥‥宏一君も良く来るの?」
――難民だったの‥‥。
「ええ、まぁ」
「何が得意なの。やっぱり〈カッティング・エッジ〉?」
――カワイソウ。
「ええ、まぁ」
「お手合わせ願えるかしら」
「え?」
「腕前を知りたいのよ。それとも女相手じゃ本気は出せない?」
そう言って高木はにやりと笑った。クリスの様だった。宏一は戸惑った。
「‥‥高木さん、〈アクション・トーク〉は使えますか」
「クリハラ・プロトコルならマスターしてるわ。それと、私のことは圭と呼んでくれて構わないわ」
「それじゃ、お手並み拝見と行きましょうか。――圭さん」
口にして初めて宏一は気が付いた。
K。
「もしかして、ケイ、アルファベットのKというのは‥‥」
「Kというのはわたしのことよ」
高木が微笑む。
Kの繰り出す素早い突きをかわす。相手の手首や指の曲げが素早く変化している。それがクリハラ・プロトコルに準じた〈アクション・トーク〉。キャラクターの動きで意志を伝えるボディ・ランゲージ。LLGW社では意図していなかったお遊び。最初、幕張経済地域(MEZo)で生まれ、すぐさま全世界の上級ゲームプレイヤーの間に広まったコミュニケーション手段だった。
Kが選択したキャラクタはクリスだった。元々敏捷に動けるように設定されているクリスはKが憑依することでさらにやっかいな相手になっている。
――ヤリマスネ。
宏一は牽制の突きと足払いの動作で言葉を伝える。Kは的確に攻撃を受け流している。
――アナタ、オナジ。
Kが素早い連打で返事を返す。宏一は足を払い、相手がバランスを崩した所で思い切り突き飛ばした。Kはそれに合わせて自分から後ろに飛び、突きの勢いを殺した。バク転し、踵が宏一の鼻先をかすめる。振り向きざまの回し蹴り。宏一はよろけたふりをしてしゃがみ、相手の軸足、その膝の裏を蹴る。Kはたまらず倒れた。
宏一は一連のアクションを楽しんでいた。Kはテクニカルなプレイヤーだった。プレイヤーの中にはキャラクターの初期設定で与えられた力でごり押しする者がいる。彼らは確かに「強い」が、それはキャラクターの力を頼みにしている以上のものではない。彼らはクルードなプレイヤーと呼ばれる。荒っぽい。
それに対してテクニカルなプレイヤーはプレイヤー自身の技量を頼みとする。彼らは攻撃と受けの滑らかに連続した動作の完成を目指す。それは所作と言い換えてもいい。昔のボタンとレバーだけで操作される、粗雑なアクション・トリガ型のゲームと違い、ゲーム・コクーンをインターフェースとするゲームではキャラクターが取りうる動作のバリエーションはより人間に近い。それだけにスムーズな動作の完成には忍耐と、ある種の繊細さを要求される。
彼らは「道」を行く。宏一はその道がどこへ続くかを知っている。それはゲーム空間でのみ価値を認められる「形」。テクニカルなプレイヤーの間でのみ認められ、賞賛される孤高の場所。少数の者しかたどり着けない遥かなる高み。
Kが脛に蹴り込もうと見せかけて、大きく踏み込み、左の手刀を首筋に打ち込んだ。宏一がよろめきながら後退した所へ、Kの右手が突き出されてくる。宏一はかろうじて受ける。
――トテモ、タノシイ。
Kのアクションはそう語っていた。宏一は何とか体勢を整え、返答する。
――ワタシ、オナジ。
Kに足をすくわれ、倒れる。
『ユウ、ローズ』
ダメージがリミットを越えた。宏一は負けた。しかし彼は繭の中で微笑んでいた。
ゲームの時間は終わり、プレイヤーは繭から現実の中に産み落とされる。
宏一はゲーム空間から無理矢理切り離された。高解像度の擬似空間も、ダミーヘッドホンを使った擬似音場も、ウォーターバックによる擬似体感も喪われた。
たまらない程の喪失感を抱えてEMカードを受取る。
Kとの試合は最高だった。負けたが、悔しくは無かった。試合というより、ダンスに近かった。二人とも次に相手が出す攻撃が読め、滑らかに受けることができた。テクニカルな試合。今までこんな試合はできなかった。Kは得難い好敵手だった。
「宏一君」
先に繭から出ていた高木が声をかけた。
「さすがに上手ね。K、O、H、1。こー、いち、って宏一君なんでしょう?」
「うん」
「わたし、あんなに上手く打ち合わせたって、今日が初めてよ。面白かったわ。特にあの、ジャブの連続から足払いと肘打ちの連続を奇麗に受け流して、反撃に移ったでしょう。あのシーケンスをかわしたのは、この店のエントリでは宏一君が初めてよ」
――カワイソウ。
宏一は曖昧に頷いた。Kに会いたかった。寡黙なKに。
「わたし、この店に切り替えるわ。また対戦してくれるわよね」
宏一は初めて圭の目をまっすぐ見つめた。
「‥‥いいですよ」
そうすればKに会える。
宏一は思った。