大きく踏み出した右足で、強く大地を踏み締める。同時に、右腕をまっすぐ伸ばし、掌を相手の肩に突き当てる。贅肉が削がれ、しなやかに伸びる腕が視界に入った。肩を打たれたアキラは体格こそ一回り大きいが、バランスを崩して仰向けにふっとぶ。アキラはそのまま石畳の上にだらしなくのびた。
踏み出していた右足をばねにし、大きく跳躍し、そのままアキラの腹めがけて膝から落ちた。ニードロップ。ぐにゃりとした感覚が膝に伝わる。
「ぐふっ」
アキラがうめく。膝打ちをした勢いを使い、前転してから立ち上がる。その時、すらりと伸びた脚と細い足首が目に入った。
立ち上がりざま、見当だけで左足を軸に身体を回転させ、回し蹴りを出す。その蹴りはちょうど立ち上がりかけたアキラの横っ面に当たった。アキラは石畳に再び叩き付けられる。もう起き上がらない。
『ユウ、ウィン』
どこからともなく響く声。その声は高い蒼穹の彼方から届くようだった。
高木圭は繭から産み落とされ、激しい音の洪水に迎えられた。
圭はいつものように背が縮んだような感覚に捕らわれた。腕も生白く、かぼそく、ぶよぶよしている。胸は大きすぎ、尻も大きく、足首にも肉がつきすぎている。何より、身体が重い。ハーモニックサロンに通えばバランスが良くなるのだろうけど、あまりにも高価だったし、通えば効果が出るものでも無いということを圭は知っている。
ゲームコクーンを脇から支えるスタンドがクロームメッキで、そこに圭の顔が映る。目元が不満だった。垂れ目気味なのは良しとしても、せめてもう少し大きな目だったら。せめて二重だったら。やや太い直毛も不満というわけではないが、満足はしていなかった。生半なセットを受け付けないのだ。髪質を改善するバクテリオクリニックというものもあったが、そちらは金額以前の問題で、生理的に受け付けなかった。
美容整形や形成発生、微生物医療は今時、特に珍しい話ではないが、圭は敬遠していた。不安があった。手術直後は良くても日が経つにつれてだんだんと崩れ、最後にはもう手術しようがないほどに醜くなってしまった、という出所不明の噂が幾つもあった。ただの噂には違いないが、日の浅いテクノロジーというのもまた確かなことだった。
なんでこんなキャラクターなんだろう、と圭は自嘲気味に思う。こんなじゃ、満足に闘えない。もっと鍛えないと。
しかし圭は五キロのダンベルを上げ下げするだけで腕がゴムのようになってしまう。それに普通に歩いたってしょっちゅう何かにつまづくのだ。闘うなんてとんでもない。
VRハウスを出る頃には、圭の身体感覚は普通に戻っていた。
「圭」
高木は下宿先のフラットに戻る途中で呼び止められた。振り向くとオレンジに発色させた髪をショートレイヤーにカットした女がいた。ごつごつと脹らんだポケットだらけの服を着ていて身体の線がわからない。胸には東京湾開発共同事業体(TBDJV)のロゴが入っているが、そこに務めているわけではない。放出品だということを圭は知っていた。
「麻奈。なんでこんなとこ」
「コレが」と言って麻奈は小指を立てる。「この近所なのよ。圭もここら辺だったね。そーいや」
「ふられたんじゃなかったの」
「あれは三人目。今は四人目」
圭の微笑みが強張る。
「‥‥茶屋に行こうか。行き付けがあんのよ」
高木は麻奈を馴染みのティーハウスに案内する。込み入った路地の奥にある雑居ビルの十二階。敷地の狭いビルで、一階一テナントという具合になっている。ビルの最上階にあるその店は、値段は高いが景色がよかった。展望台料のようなものと思えば高い値段も納得がいく。晴れた日は都心ビル群に富士山も見えた。
二人は南西角のテーブルに座った。東京方面は生憎かすんで、新宿のビル群がシルエットになっているのが解る程度だった。
「いい店ね。あいつを誘って来てみるわ」
「どこで知り合ったの? サークル?」
「今、緑陽系の会社で補助社員に雇われてるのは知ってるでしょ。そこで」
「そういうのってまずいんじゃないの」
「緑陽はそこら辺寛容らしいわ。圭のところはどう? お稚児さんはいた?」
ばか、と圭は小さく答えて続けた。
「マッチョ気取りが二人に、暗ぁいのが一人。暗い子は事情があって仕方ないと思うけど、マッチョ気取りは駄目。勘違いしてるらしーし」
「黙って俺についてこい、みたいな」
「バカな女ほど可愛い、みたいな」
「まあ、そういうバカさ加減が可愛いところではあるがな。うん」
「それだって程度問題。あたしは駄目。バイト仲間だけでそれ以上は勘弁してほしーわ」
「この線から入ってくんな、みたいな」
「とっととお帰り、みたいな」
その時ウェイターが盆に冷えたアール・グレイを入れたポットとカップを2つ乗せて来た。テーブルの上に静かに並べる。砂時計が静かに時を計っている。規則正しい歩調で歩み去るウェイターの腰の辺りをしばらく麻奈は見送った。
「で、その暗い子ってのは」
「〈難民〉だって」高木はポットの中身を二つのカップに注ぐ。「家族の中で助かったのはその子一人なんだって」
「上?」
「二つ位下」
「じゃあ、圭お姉様が慰めてあげれば」
「たまにゲームをしてる。あんまり話さないのよ。話題が無くて」
「ゲーム?」
「カッティング・エッジ。知らん?」
「聞いたことはある。あんまり知らんのよ。そっちの方は」
「リアルライブゲーム。‥‥擬似体感ゲームね。言ってしまえば」そう言って高木は紅茶を一口飲む。「わたしはクリスっていう、背がすらーっと高くて、脚と腕が細くて、無駄のない引き締まったボディを持っているキャラを使うの」
「へぇ」
「で、やることっていったら、格闘ね。シネマ・モードっていってビデオの途中まで眺めていて、突然格闘シーンに入るのもあるんだけど、わたしはそっちよりトレーニングっていって、ひたすら格闘する方が好き」
「SM?」
「違うわよ」
圭は吹き出す。
「相手はどんな奴なの。マッチョ?」
「マッチョ」
――早朝ドライブってのを計画してんだけどさ。高木もどう? 来るだろ?
あの無神経さ。面の皮の厚さ。
「で、そいつらを叩きのめすってわけ?」
付き合いだから行ってやるんだ。
「‥‥どしたの」
と、麻奈。
「え?」
「何怒ってるのさ」
「ちょっとシリアスなこと思い出しちゃって」
ふーん、と頷き、麻奈は紅茶を飲みながら上目使いに高木を見る。
――それじゃ、明日、朝早いけど、迎えに行くからさ。
ありがたいったらありゃしない。
脇腹に衝撃。蹴りが入ったのだ。高木は余計な考えを意識の外に追いやる。
相手は〈アブドゥル〉だった。シネマ・モードで彼は国連核監査機構の特別捜査員という設定を与えられている。身につけているのはSAS流の近接格闘術。シネマではいずれクリスの味方となる人物だ。
高木は相手の懐に飛び込むチャンスを狙う。背負い投げを狙っていた。アブドゥル相手の試合で長引いては自分が不利になる一方だ。しかし相手の隙を待つわずかな瞬間に、抑圧していた思いが頭をもたげる。
宏一君が来てくれるならまだ安心なのに。高木は思う。あの二人だけじゃ鬱陶しくてかなわない。厚かましい。
足元をすくわれる。高木は地べたに叩き付けられた。背中に衝撃。急いで起き上がろうとした時、今度はみぞおちに鈍い衝撃があった。アブドゥルが拳を叩き込んだのだった。ウォーターバックの圧力が強まり、身動きできない。身体が重い。
『ユウ、ルース』
どこからともなく響く声。世界が暗転し、高木は現実に滑り落ちる。
――最低。
身体イメージの違和感がたまらなく不愉快だった。いつもは苛立ったりしないのだが、今回は違っていた。背の縮んだような感覚が、ぶよぶよに肉がついたような感覚が、身体の重くなった感覚が、そうした様々な感覚が彼女の神経を逆なでする。これほど〈クリス〉への憧れを意識したのは初めてだった。
もう一度繭に入ろうか。
そうは思ったものの、気分がノらなかった。ギャラリー用のモニタをふと見上げる。ずらりと並ぶ幾つものディスプレイの中で、何人もの「格闘家」がそれぞれの世界で、それぞれのプライドを賭けて闘ってる。ある世界でクリスは負け、ある世界では勝つ。全世界で同じような光景が同時に展開している。彼らも違和感を覚えることがあるのだろうか。高木は気になった。
「圭。やっぱりいたのね」
麻奈だった。後ろに一人女性を連れている。
「珍しい所に来るわね。後ろの人は‥‥」
麻奈は小指を立てる。
「こないだの話を聞いて、ちょっと面白そうでさ。見てみようと思ったの。そしたらシャオメイがたまに遊んでるって言うからさ」
シャオメイは黒髪の直毛で、肩口からうなじにかけて短くなるように切り揃えられていた。肌が白く、顔立ちはどことなくネットで見かけたような印象がある。白い頬の、頬骨が隆起している個所には赤いマーキングの線。その線に重なるようにして〈RYOKUYOU・BODYBUILD〉のロゴも印刷されている。デザイナーズ・シェイプ――美容整形/形成発生技術の極限の姿だった。高木はしばし見入ってしまった。
「こんにちわ。シャオメイさん」
「こんちわー。圭さん、ですねー」
「圭と対戦してみる?」
「ううん。まずソリティアからー」
高木はシャオメイの言葉にとりあえずほっとした。まだ繭に戻る気分ではなかった。「ソリティア」というのは一人遊び、要するに対戦なしのゲームだった。昔はCPU戦とも言った。
シャオメイは高木と麻奈が見守る前で繭に入っていった。ウォーターバッグが膨張して彼女の身体を締め付ける。彼女の顔は上気していて、その表情がエロティックだった。しかし、繭が閉じてしまい、中の様子はわからなくなる。
シャオメイがキャラクターを選択する過程はギャラリー用モニターで見ることができた。彼女が選んだのは「アキラ」だった。筋骨隆々としたモンゴロイドのルックス。四角い顔に、いかつい身体。
シャオメイの選択は高木には意外だった。てっきり〈クリス〉を選ぶものと思っていたからだ。あるいは〈リー〉か〈トモエ〉のようなフィーメール・フォームを。
「彼女、TS(Trans Sex)でさ」
麻奈が囁く。
「ただの美容形成じゃなかったの――デザイナーズ・ブランドよね。あれ」
「二年前だって。最初はただの転換手術だったんだけど、結果が気に入らなかったらしくていろいろ手を加えたらしい」
「それで、レズビアン? どうみてもネコよね。彼女」
「ずいぶん複雑なメンタリティなのよ。転換前の写真を見せてもらったけど、あんな――」と、モニターを目で示し、「――感じのマッチョ系だった」
「後悔があるのかもね」
「それは無いようだけど‥‥喧嘩する時は昔の感覚の方が馴染みがあるのかもね」
喧嘩じゃないんだけど、と高木は苦笑する。
「――あたしもTSするつもりだった」
麻奈が言う。
「意外じゃないわ。なんでしなかったの?」
「精神的に追い込まれるほど重症じゃなかったし、とりあえず今の身体のままでやってみようと思ったんだ」
モニターの中で格闘競技が始まる。シャオメイが憑依したキャラクターは荒々しく技を繰り出し、容赦無く相手を追いつめる。外見からは想像できないスタイルだった。
麻奈が何か言うが、騒音にかき消される。高木は訊き返した。
「あたし達、SIL(Spouse-In-Low)契約を結ぶつもりなんだ」
「あら、おめでとう」
「でも」と、麻奈は言い淀む。「あいつこんな性格だったのかぁ」
「知らない一面?」
「このゲームってやっぱり性格でるもんなの?」
「出るらしいわよぉ」
高木はモニターに注意を戻した。シャオメイは何を想って〈アキラ〉を選んだのだろう。高木は思った。女性に転換した元男性がメール・フォーム(雄型)を選ぶ動機は何なのだろう。
「‥‥圭、あんたは何を使うの」
「〈クリス〉っていうキャラクタ」
「そういえばそんなこと言っていたっけ」
たまたまシャオメイが相手をしているキャラクタが〈クリス〉に変わった。シャオメイは〈クリス〉に体当たりをかける。高木は間抜けなアルゴリズムが操作する〈クリス〉にまだるっこしいものを感じる。
シャオメイが〈クリス〉の足元に蹴りを連続してキメる。〈クリス〉の上体が揺らいだ瞬間を逃さず、シャオメイは〈クリス〉を突き飛ばした。高木は身体を思わず動かしていた。
「ったくもう」
高木は呟き、麻奈がくすりと笑った。
「圭、あんた〈クリス〉に一体化しちまってるのね」
高木はその時、モニターの向うに自分自身を覗き込んでいることに気が付いた。
――ああ、そうか。
「ねぇ、麻奈」高木はモニターを見上げたまま話し掛ける。「ゲームでうっぷん晴らしって、あんまりいい傾向じゃないよね」
「‥‥たぶん。別に構わないと思うけどね。うっぷんの原因を放っておくことの方がまずいんじゃないの。これで晴れるなら、それはそれで結構なことよ」
「そうだよね」
とりあえず連中には一言釘を刺しておこう。高木は思った。まさか本当に殴り倒すわけにはいかないし、そんな力もない。
ゲームのようなわけにはいかない。高木は知らないうちに自分の柔らかい腕をもんでいた。