カッティングエッジ
§Episode-12:羽化(その4)

 マッシュポテトにはいつも以上に客が集まっていた。菱井は人込みを泳いでステージの前に出た。そのステージは今回のイベント――〈カッティングエッジ・セカンドステージ〉のためにあつらえられたものだった。店のフロアから一段高くなったステージの両サイドにはゲームコクーンが2基据え付けられていて、中央には天井までの高さを持つディスプレイが置かれていた。ディスプレイにはゲームの映像が映し出されている。画面の下、左右の隅にはコクーンの中にいるプレイヤーの顔のアップが小さい四角の領域としてインポーズされている。左のプレイヤーは坂下だった。
 ゲームはすでに二セットが終わり、今は最終セットだった。この試合はマッシュポテト北千住店での決勝になる。この試合の勝者が東京地区予選へと進む。
 坂下と対戦しているのはMGAという男だった。菱井はその通り名に見覚えはあったが、顔を見るのは初めてだった。ゲームの展開では、二人の実力は伯仲しているように見えた。MGAはクリスを使い、その敏捷さを生かしてテンポ良い攻撃を繰り出しているが、坂下はそれらを受け流し、合間に反撃している。ディスプレイを通してみている菱井には、この試合が格闘映画さながらのように見えた。
 しかし、菱井はプレイヤーの顔を見比べて、決して伯仲しているわけではないことに気がつく。目がヴューワーで隠されているので今一つ掴みにくかったが、坂下の表情は全くのフラットで、不気味なほどに静かだった。それに対してMGAの方は口元に大きく力が入り、歪んでいた。食いしばった歯が唇の間からのぞいていた。
 あいつは坂下についていくのがやっとなんだ。菱井は思った。坂下はまだまだ実力を出しきっていない。菱井は坂下に嫉妬を覚えた。それは自分自身の力に対する絶望に似た認識の裏返しだった。
「勝ちは宏一だな」
 突然肩を叩かれ、菱井は驚いてそちらを向いた。大下だった。
「あいつ、二セット目はわざと落としただろう」
 菱井は軽く頷くにとどめた。坂下はテクニカルなプレイヤーだから、一セット目を取ったのなら、当然そうするだろう。そして、一セット目を取ったというのなら‥‥。菱井はディスプレイに注意を戻した。
 ――偶然勝つような奴じゃない。
「くそう。あいつ、うまいよな」大下が耳元で囁く。「羨ましいくらいだ」
 菱井は驚いて大下を見た。
「なんだよ」
「大下さん、変わりましたね」
 大下は怪訝そうに菱井を見つめる。
「昔だったら、羨ましいとか言わなかったでしょう。特に宏一相手には」
「そうかもな」大下は気を悪くした様子もなく答えた。「でも、半年経てば、あそこにいるのは宏一でなくて、俺さ」
 菱井は苦笑した。その時周囲のギャラリーがどよめき声を上げた。坂下の操るアキラの体当たりでMGA操るクリスが吹き飛んだからだ。菱井ははっとしてディスプレイに視線を移す。
「‥‥昔は、ゲームに負けると自分自身が駄目な人間になったような気がしてた」
 大下は囁いた。菱井は耳元がぞくぞくしていたが、とりあえず我慢した。
「ただ、最近はそう思わなくなってきた。勝ちたいと思うのは同じなんだが、それ以上に‥‥なんだろな、自分を試すのが楽しみなんだ」
 菱井は微笑んでいた。そういう感覚は菱井にもあった。ただ、自分の実力の無さを菱井は良く知っていた。
 ディスプレイの中でアキラは大きく蹴り上げた。クリスが宙高く跳ね飛ばされ、石畳の上にのびる。
『KOH1 WIN!!』
 ポリゴンの文字が画面で躍った。女店員の声が店内放送で流れる。
『――マッシュポテト北千住、決勝戦に生き残ったのはKOH1でした。しかしMGAもよく健闘しました。これからコクーンが開きます。勝者、敗者、皆様、共に拍手でお迎えください』
 菱井は手を叩いた。大下も叩いていた。

 あれほど集まっていたギャラリーも、決勝戦が終わって三十分も経つと殆ど帰ってしまっていた。菱井達はこの後、マッシュポテトからそれほど離れていない居酒屋〈いろりばた〉へ流れ込む予定だったが、予約の時間にはまだ余裕があった。彼らは店の隅で丸椅子をに座っていた。
「東京地区予選はいつはじまるんだっけ」
 高木が誰に訊くともなく言った。
「来週の金曜から」
 菱井が答える。高木の隣には坂下が座っていた。坂下は穏やかな微笑みを浮かべていた。さっきまでのコクーンの中とはうってかわった柔らかな表情だった。
 こいつも変わった、と菱井は思う。以前のとっつきの悪さが薄れてきている。高木とつきあっているらしいから、その影響なのだろう。
「でも、金曜日にすぐ予選というわけではないんですよね」
 木原が言う。坂下はうなずいた。
「組み合わせ次第だね。次の水曜までに決まると言われた」
「自信はどんなもんです」
「わかんないよ」坂下は肩をすくめた。「そりゃ、アジア大会には出たいけどね。やってみないと解らない。前はアジア大会には出られなかった」
「じゃあ、今度は」
「やってみないと解らないよ」
 確かに坂下は変わった。良く話すようになっていた。そんな坂下を高木が黙って見守っている。恋人というよりは姉のようだと菱井は感じた。
 菱井は高木に見守られている坂下が羨ましいと思ったが、嫉妬は覚えなかった。高木と坂下の間にある穏やかな雰囲気は、二人の間だけでなく、この場にいる全員を包んでいるようだった。菱井はその雰囲気を懐かしく感じながら、自分には縁が無いかもしれないと思うと悲しくもあった。菱井はシャオメイのことを思い返していた。
「ねえ、高木さん」木原が話し掛けている。「麻奈さん達、遅いですね」
 菱井はハッとした。
「仕事があるって言っていたからね。でも、確実に間に合うって言っていたから大丈夫よ。たぶん」
 ちょうどその時、店に麻奈とシャオメイが入ってきた。
「ナイスなタイミング」
 木原がそう言い、全員が立ち上がった。

「おねえちゃん、ビール十缶!」
 大下が大声を上げる。その声もざわめきや笑い声がわんわん響く店内ではほとんど通らない。立ち込める湯気、ビールや焼き肉、溶けたチーズの匂い。狭いフロアに客達は押し込められ、店員はテーブルとテーブルの島の間を泳ぐが客とぶつからずにはいられない。コップとコップがぶつかり、フォークが鉄板とぶつかる。薄暗い照明。天井は高いが吊るされたランプや、自在鉤のまがい物、わざと交錯して組まれた梁のせいで低く感じる。厨房はフロア隅のカウンターの向こうにあり、そこだけ異様に明るく見える。
 店員がアルミのジュワーボトルの取っ手をまとめて掴んで運び、テーブルの端に無造作に置いた。置かれたボトルは手から手へとわたり、たちまち全員に行き渡る。
 アルコールは十分にまわっていた。
「‥‥でさぁ‥‥」
 笑い声。菱井も一緒になって笑うが、頭のどこかで、それほど可笑しい話でないことは解っている。単なるアルコールによる生理作用だった。アセトアルデビドによる頭痛も薄々感じていた。
「飲んでる? んん?」
 ぐい、と菱井の目の前にグラスが突き出される。麻奈だった。
「飲んでますよぉ」
 そう答え、味の落ちたビールを飲む。
「いや、その顔は本心から飲みたいという顔じゃないな」
 菱井はぎょっとした。
「麻奈、あんた絡み酒だったの?」
「別に絡んじゃないわよ。ねえ」
 菱井はあいまいに頷く。麻奈の隣に座るシャオメイは我関せずといった風で、涼しい顔でビールを飲み干す。
「なんか、こう、隠してるって顔なのよねぇ」
「麻奈ったら、それくらいにしときなって」
「そぅお?」
 菱井は麻奈の言葉と一緒にビールを飲み込んだ。すっかりぬるくなったビールは不味かった。ボトルを傾けて新しく注ぐ。注ぎたてのビールは良く冷えていたが‥‥苦いことに変わりはなかった。

 二時間ほど騒ぎ、〈いろりばた〉を出たとき、マッシュポテトは未だに開いていた。店内にはそこそこ客がいたが、どことなく開店休業という雰囲気だった。誰が言うともなく、ちょっと遊んでいこうか、ということになった。二次会前の腹ごなしのようなものだ。一同はぞろぞろとマッシュポテトに入っていった。
「酒入ってゲームなんかして大丈夫かしらね」と、高木。「中で吐いたら弁償でしょう?」
「平気だよ。一セット制ならもつんじゃない?」
 そう言って、坂下が繭の一つに近づく。
「菱井さん、やりません? たまには」
「俺か?」
 菱井は驚き、本当は気が進まないということを悟られないようにおどけてみせた。
「ま、いっちょもんでやるか」
「お、大きく出たね」
「たまにはね」
 菱井は適当に繭を選ぶと、中に収まった。エアの抜ける音がして、シェルが閉じていく。大下や高木、木原、麻奈にシャオメイがこちらを見ていた。やがてシェルが閉じ、マスクが顔に当たる。AARS(Advanced Air Reguration System)、菱井の脳裏にそんな単語が浮かんだ瞬間、全ウォーターバックに圧力が加わり菱井の身体は締め付けられた。角膜投影型のディスプレイ装置が菱井の虹彩位置を検出し、プロジェクターの光軸(パララックス)調整を行った。菱井の眼前に広がるのは実在感を伴う非在の空間。四角い窓が上下左右に連なり、球形の空間を形成している。
「KOH1」
 窓の一つが視野いっぱいに拡大される。窓の縁が無限に遠ざかり、菱井はその景色の中にいる。石畳のステージ。目の前にいるのは宏一、いや、アキラだ。
 ――自分の妄想をあのコに被せるのだけはやめて。
 不意に麻奈の言葉がよみがえった。あの時はただ彼女の剣幕に押されていただけで、その意味を深く考えなどしなかったが‥‥今は良く分かる。
『ブラッシュアップ、ユアソウル』
 アキラが不敵に微笑みながらこちらを見ている。だが、宏一は微笑んでいるのだろうか。
『レディ‥‥』
 そんなこと解りはしない。眼球に投影された映像を見ながら菱井は思う。繭を開かない限り解るはずなどない。しかし‥‥。
『ゴウ』
 アキラ――KOH1――宏一は先制を仕掛けてきた。すり足をしつつ残した足に力をためて、大きな跳躍を行い一気に間合いをつめる。
『ハッ!』
 アキラが掛け声と共に肘を当てて来る。菱井はその衝撃を胸に受ける。
 ‥‥しかし、〈アキラ〉は幻なのだろうか。菱井は体制を整え、次の反撃に備えつつ相手の隙をうかがう。幻だとしたら、この衝撃は何だ。
 アキラが次に繰り出した掌底をかわし、足払いをかけて牽制する。足にその感触が返る。アキラは存在していないわけではない。アキラは確かに存在する。ゲームコクーンが持つ〈疑似官能システム〉が菱井の内部にアキラという実体を作り上げる。アキラは映像の中にいるわけではなく、ゲームシステムのメモリ空間の中にいるわけでもない。〈アキラ〉は菱井の中にいる。外にはいない。 そして‥‥〈シャオメイ〉が菱井の中にいた。
 ――被せるのだけはやめて。
 だが、シャオメイは外にいた。
 菱井は自分が知っているシャオメイが、自分の中にいる〈シャオメイ〉でしかないことを痛烈に思い知らされた。シャオメイだけではない。〈大下〉も、〈坂下〉も、〈高木〉も、自分が知っている〈彼ら〉は彼らではないのだ。
 激しい衝撃。菱井はまたもや考え事をしている間に倒されてしまったことに気がついた。
 シェルがゆっくりと開いていく。そこには彼らがいた。
「うー、気持ち悪い」
「おいおいおい、大丈夫かよ」
 菱井は苦笑しながら繭を出た。
「こんなとこで吐かないでくださいよ」
 木原が背中をさする。
 結局、本当に「知る」ことなどできないのかもしれない。木原が背中をさするのを感じながら菱井は思う。
 菱井は嬉しそうに高木と話す坂下に目をやった。
 でも、全てが幻というわけじゃない。‥‥当たり前だ。
 菱井は小さく笑い声を漏らした。
「よし、次は俺だ。相手は誰だ」
「シャオメイ、いけー」
「ええええ? わたしぃ?」
 菱井は妙にくつろいだ気分で手近の丸椅子に腰を降ろした。いつになく穏やかな気分だった。
「菱井さん、大丈夫ですか? 涙目ですよ」
 木原が言う。
「泣き上戸なんだよ」
 木原が聞き返したが、菱井は笑って答えなかった。
 菱井は背中をさする木原の手を感じていた。
 幻だって? まさか。
 菱井は寛いだ気持ちで仲間の空気に加わっていた。
 少し違う方を見ていただけなんだ。


'Cutting Edge'
Satoshi Saitou
Create : 1996.02.01
Publish: 2010.05.23
Edition: 4
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