目を閉じろ。〈翁様〉が言ったことはまずそれだった。わたしは言われた通りにした。
「この世界は一方向にしか動けん。お前さんは違うと思っただろうが、しかし、そうなのだ。このまま進めば、おまえさんは自分の名前どころか生まれてからの記憶も、〈自分〉という思いすら消えてなくなって、〈幽霊達〉の海の中に沈んでしまう。そうなればもう、帰ることはかなわん。だが、まだ自分が何者なのかわかるなら大丈夫だ」
わたしには〈翁様〉の言うことの半分も理解できなかった。
「‥‥さて、おまえさんは今〈カラス〉だ」
冗談でしょう? わたしは目を開いた。目に入ったのは地べただった。ぴょん、ぴょん、と〈追い払う翼〉が目の前に現れた。ずいぶんと大きくなっている。そして、ずいぶんと魅力的に見えた。カラスとして、ではなく、一羽の異性として。
わたしはその感覚にとまどった。
「羽ばたいてごらんなさい」
〈追い払う翼〉が言った。羽ばたく?わたしは言われるままに腕を上下させ、〈翁様〉の言葉が冗談でも何でもないことを知った。
わたしの両腕は、指先まで鈍い紺の光沢をもつ黒い羽で覆われていた。いや、腕だけではない。身体中に羽が生えていた。脚は細く、枝のようになり、身体を支えるのに少々心許ない。
「ふむ。あんたなかなかいい羽をしているね」〈追い払う翼〉が言った。「では、槍方頭であるわたしが直々に飛びかたを教えてあげる。感謝しなさい。これは光栄なことなのよ」
〈追い払う翼〉は胸を張った。
「これはこれは恐悦至極にございます、とでも言うべきなのかな」
「そういうことね」
わたしは〈追い払う翼〉に従って羽ばたきの訓練をした。カラスの身体そのものに飛ぶ方法が染み込んでいたようで、わたしはすぐに飛べるようになった。わたしが〈追い払う翼〉の後について飛んでいると、〈翁様〉が近づいてきた。
「帰る方向は〈追い払う翼〉に案内してもらえ。だがな、途中、〈幽霊達〉がお前を飲み込もうと待ち構えている。そこが難関じゃ。自分をしっかりと捕まえておけ」
わたしはうなずいた。
「後は〈追い払う翼〉に任せた。わしは休ませてもらうよ。日も傾きかかっていることだしな」
わたしはあたりが闇に沈みかけていることに気が付いた。早い。まだそんなに時間は経っていないはずだ。わたしは思わず〈翁様〉に訊いた。
「今は何時なんです」
「決まっているだろう」〈翁様〉は微笑んだようだった。「〈いつでもない時〉だ」
突然強い風が吹き、わたしと〈追い払う翼〉は木の葉のように吹き飛ばされた。
「ぼうっとしちゃだめだよ!」〈追い払う翼〉が叫んでいた。「自分をしっかりと捕まえておくんだ!」
――アア、ハラガヘッタ。わたしの中にわたしのものでない考えが湧いてきた。ハヤクオンナヲツカマエヨウ‥‥アイツキライダ‥‥アイツハヤクカエッテコナイカナ。わたしのものでない考えはあとからあとから湧いて出てきた。それは水がほとばしる蛇口を手で押さえているようなものだった。すごい圧力で水は飛び出そうとしており、手で押さえてもわずかな隙間からほとばしる。
わたしは自分の考えと、そうでない考えが区別できなくなりかかっていた。
これが〈幽霊達〉なんだ。
わたしは突然悟った。〈翁様〉が警告したことはこれなんだ。〈わたし〉を見分けられなくなってしまう。