カラス
1.

 カラスは野鳥だ。しかし、都市生活者でもある。街中で灰色の谷間を飛ぶ影にふと気がつくと、そこに漆黒の翼を力強く打つカラスを見つけることが多い。彼らは頭上高く、電線やビルの屋上の手すりに集まり、地面を歩き回る人間を冷ややかに見下ろしているようだ。
 わたしは横浜の郊外に住み、勤めに出ている。この土地も駅周辺にカラスが多い。彼らは繁華街を餌場にしている。つまり、スカベンジャー。ゴミ捨て場を荒らさなければこれほど嫌われることはなかったかもしれない。
 駅の近くに川が流れている。そこそこ幅はあるが、取り立てて見所のあるような川ではない。自転車やタイヤを鮒に食わしているような川だ。ただ、駅から下流へ約2キロほどにわたる川岸には桜が並び、春先には桃色の花が泡のように咲き揃う。
 わたしは会社への行き帰り、この川にかかる橋を渡る。橋の上からプラットホームが良く見える。通勤通学のために電車を利用する人は、この橋にさしかかった時、ホームの状況を見て走り出したり、あるいはあきらめて開き直ったようにゆっくり歩くことが多い。
 この橋から見えるのはどちらを向いても街の景色だ。唯一の例外は川の下流方向だけで、そちらを見ると急に流れの向きを変える川に沿って桜並木が伸びるのが見える。しかし桜の梢の向こうにNTTの電光掲示板が見えたりして、今一つぱっとしない。しょせん近郊とはこんなものだ。
 ただ、夕暮れ時、辺りが薄暮から闇へと変わる瞬間の景色にだけは心を動かされる。空は菫色から濃紺へと色を落とし、夕日の残滓を浴びて弱く雲は輝く。その雲をバックに街はシルエットとなり沈んでいく。その一瞬の景色は静寂に満ちている。
 残念なのは退社時刻の関係や天候の関係で、毎日毎日その景色を楽しむことができないことだ。その一瞬に立ち会えるかどうかは本当に運だった。

 その日は、運が良かった。橋のたもとに着いたとき、その「一瞬」であることが解った。雲がまだ明るかった。くたくたに疲れて(肉体的というよりも精神的に)いたが、この「景色」を見たときには疲れを忘れる。他に行き交う人はいたが、この瞬間を見ている人はいない。他の人にはなんでもない景色。自分だけに意味を持つ景色。
 わたしは欄干に寄りかかった。橋の中央とたもとにある街灯に明かりがすでに灯っていた。薄暮から宵闇へと変わりゆく瞬間。背後を電車が走り抜けるが、その騒音も気にはならない。静寂の時。滑らかな空気。
 その空気の中、はばたく音がした。その音は川面から飛び上がって来る。カラスだった。薄暮のカラス。そのカラスはわたしが近くにいるのもおかまいなしで、欄干の上に降り立った。鉄製の欄干にかぎ爪が当たって、カンカンと鳴った。あたりが闇に沈む前にねぐらへ帰るのだろうか。何にしても、駅の近くはネオンや水銀灯の光があふれて眠れないのではないだろうか。
 そのカラスは太いくちばしで羽の手入れをした。
「お前らは気楽だな」わたしは横目に見て呟く。「一日中飛んでいればいいのだから」
「ホントにそう思う?」
 カラスは答えた。欄干の上をトットットッと跳ねて近づいて来る。最後の一歩でバランスを崩し、バサバサと羽ばたいた。
「違うのかい」
 わたしは訊き返した。カラスの黒い目を覗きこむ。
「他人の仕事はラクに見えるものよ」
「‥‥なるほどね」
 わたしはなんとなく納得した。カラスはわたしの返事など待たず欄干から飛び去っていた。薄暗い空を背景に羽ばたく黒い姿をみて、ようやくわたしはカラスと話すということが尋常ならざる事だということに気が付いた。
 私は他人から「変わり者」と呼ばれても別段気にしない方だ。しかし、「あの人はカラスと話したらしい」と言われるのは致命的な気がした。誰にも話さないほうが良いだろう。そもそも自分自身、今の体験を信じかねていた。カラスが口をきくはずなどない。たぶん自分の無意識の底に浮かんだ言葉がカラスに投影されたんだ。わたしはそう思った。

 それから数日の間、わたしはカラスと話したことなど忘れていた。仕事は変化に乏しく、キリがなかった。昨日と今日の区別が無く、おそらく今日と明日の区別もないだろう。繰り返される単調な作業に追われる中で、わたしはいつのまにか季節はおろか、曜日の感覚を喪っていた。コーディングステップの目標値は300ステップ/日であり、それを4日続けると別の機能コンポーネントの設計作業が待っていた。納期から逆算されたスケジュールによれば、1つの機能コンポーネントの設計に2日以上かけることはできず、コーディング作業に4日以上かけることはできない。その状況がすでに一月続いていた。これはストレスになった。深刻なストレスになっていた。各機能コンポーネントの品質は初めから信頼できない出来だった。
 わたしはくたくただった。終わりがあるようには思えなかった。そもそも終わりなど初めから無いように思えた。始まりは無く、終わりも無い。自分は円環に閉じた時間の中にいるように思えた。永遠に続く「今」。それはぞっとするようなビジョンだった。その円環は時間の牢獄に他ならない。それは物理的な障壁ではないので、決して抜け出すことができない。
 その想像はさらなるストレスとなるので、わたしは努めて先のことを考えないようにしていた。明日のことなど知ったことではない。
 だいたい、わたしで無くても構わないのだ。同じ仕事ができるのなら、誰だって構わない。誰がわたしの代わりになろうとも、同じ仕事をこなせるのなら、誰も気にしたりはしないだろう。誰でも同じなのだ。違いなどありはしない。
 そう思い、わたしはため息をついた。

'The Raven'
Satoshi Saitou
Create : 1997.07.27
Publish: 2010.05.31
Edition: 2
Copyright (c) 1996-2010 Satoshi Saitou. All rights reserved.