「それで、まだ悩んでいるってわけ?」
〈追い払う翼〉がわたしの頭上を滑空しながら言った。椎の枝にぶつかる寸前に大きく羽を広げてブレーキをかけた。枝の上でちょん、ちょん、と跳ねてこちらに向き直った。得意気にわたしを見下ろす。
「あんたは、〈何者でもない者〉よ。それ以外のなんだっての」
「なぜだ」わたしは〈追い払う翼〉に言った。「なぜ、わたしが〈何者でもない〉んだ」
「それくらい自分で考えなさい、人間。賢いんでしょう」
〈追い払う翼〉はわたしの肩に飛び移った。わたしの耳をそっとつつく。
「おい、よせよ」
「あっちの方へ連れていってよ」
変なカラスだ。自分で飛んでいけばいいだろうに。わたしがそう言うと、〈追い払う翼〉は一声鳴いた。笑ったらしい。
「別にいいじゃない、人間。わたしだってたまには地面を這いずりまわってみたいのよ」
仕方ない。まぁ、いいか。わたしは〈追い払う翼〉を肩に載せたまま歩き出した。〈追い払う翼〉に指図されるまま、自分では行く宛もなく歩く。落ち葉が散らばる赤土の道をしばらく歩くと竹薮が終わり、見晴らしの良い丘の斜面に出た。道の両側は畑になっていて、畑を区切るように梅の木が植わっていた。
ここはどこなのだろう。
わたしは自然とそう考えていた。その問いは無意味なはずだった。〈翁様〉によれば、ここは〈どこでもない所〉なのだから。〈どこでもない所〉が「どこか」であるはずなどない。
それでもわたしは、頭で解ってはいても、見慣れた景色がどこかにないか必死になって探していた。自分が全くの異世界に来ているという想像には耐えられなかった。自分が見慣れた世界から完全に切り離されているという状況には耐えられなかった。〈追い払う翼〉や〈翁様〉がいるとはいえ、自分は孤立していた。周囲に頼るべきものはなく、自分で自分を支えなければならなかった。それほどの重荷を支えるほどに、わたしの心は頑丈にできてはいなかった。わたしは自分の世界の痕跡を探した。
わたしが見下ろしているのは横に伸びる谷だった。細い川がゆるやかに蛇行しながら、谷の中央を流れる。川の両岸は緑の色も濃い平原で、段々となりながら次第にせリ上がっていく。向こう岸はどうやら大きな丘陵地帯のようで、一面生い茂る木々が隠している。ずっと大昔、おそらくこの谷は細い沢だったのだろう。その沢を流れる水がながいながい年月をかけて台地を削ったのだ。その台地の向こうに青く霞んだ山並みが見える。どことなく見覚えのある形だ。その山並み越しに薄く山が見える。白い山。
わたしは愕然とした。
その白い山は富士山に間違いなかった。それが富士山であることを知った瞬間、全ての地名が意味を持ちはじめた。自分はこの地形を知っていた。向かいに見えるのは相模丘陵の東側だった。本当なら、あの豊かな緑を貪食するように広がる住宅地が見えているはずだ。谷の底にも、雑居ビルや家屋が灰色の起伏となってびっしりと広がっているはずだ。あの川と平行に鉄道の線路が伸びているはずだ。今そうした人工物は何一つ見えず、ただ緑の丘が横たわり、遠くに丹沢の山並みと富士山が見えるだけ。
「ここは戸塚だ」わたしは投げ付けるように喋った。「ここは戸塚だ。しかし、戸塚じゃない」
「あんた何言っているの」
〈追い払う翼〉が落ち着き払ってこたえる。
「間違いない。ここは戸塚なんだ。でも、わたしが知っている戸塚じゃない。違う戸塚なんだ」
「ねぇ、人間、落ち着きなさいよ。ここがあんたの知っている所と似ているからといって、同じ所ということにはならないわよ」
「だから、違う戸塚なんだ」
「〈違う〉のなら、〈戸塚〉ではないのよ」
わたしははっとした。ここは〈ここ〉としか呼びようがない。ここで地名は意味を持たない。どうとでも名付けることができるからだ。なぜならここが〈どこでもない所〉だからだ。地名が〈ここ〉の全てを表わすことは決してできない。
「解った」
わたしは静かに言った。まだ多少の混乱はあったが、わたしは答えを掴んだと確信していた。
「何が」
「〈わたし〉が何者かわかった」
〈追い払う翼〉は翼を大きく広げた。
「それじゃ〈翁様〉をよんでくるわ」
〈追い払う翼〉は力強く羽ばたくと竹薮へ飛んでいった。