だからこそ、些細なことが僅かな慰みになっているのかもしれない。その日は何とかまだ明るいうちに退社することができた。西の空はオレンジ色に輝いている。暗いコバルトブルーの雲が東の空に浮かんでいて、その雲の上辺は夕日を浴びて赤く染まっていた。
駅前の人混みをかきわけ、商店街を抜ける。聞いた覚えはあるが、誰の歌か判らない曲が街頭のスピーカから流れていた。古本屋のある角を曲がる。橋に近づく。
うろこ雲が夕日の残光を浴びて薄桃色に染まっていた。雲と雲の合間に見える空は、薄い透き通るような紫色をしていた。
「瞬間」だ。わたしは思った。
橋の上をシルエットだけになった人々が歩いていた。わたしは路肩に置かれた自転車の列に注意を払いながら橋に近づいた。薄暮の中、周囲は静かだった。
橋の真ん中で立ち止まった。川面は闇の中に沈みかけ、川端の灯がゆれて映っている。ぱしゃ、と水の跳ねる音がした。
ああ、そのお姿を見るたびに胸がどきどき高鳴ります。これが、鯉? ‥‥アホか。第一この川にいるのは鮒だ。
わたしは苦笑して欄干から離れようとした。後でコンテナを連ねた貨物列車が走る。わたしは肩越しに振り向いた。列車は鉄橋の上で大きく音を立てる。ごとんごとん、ごとんごとん。列車は長く、いつまでも最後の車輌が来ない。ごとんごとん、ごとんごとん。
わたしは魅入られたように列車が走る姿を見つめていた。いつまでも、いつまでも、コンテナの列は途切れない。いつまでも、いつまでも。ごとんごとん、ごとんごとん。ごととん、ごとんごとん。
その単調な音がふっと小さくなった。わたしは背後に鳥の羽ばたく音を聞いた。振り返ると、暗い中、カラスが街灯の光の中に現れた。
あのカラスだ。わたしは思った。カラスはあれだけいるというのに。しかし、「あの」カラスだ。
「こんなに暗くなっちゃった」
カラスは欄干にとまり、辺りをきょろきょろと見回した。
「暗くなっちゃった」
「それほどでもないだろう」
わたしは答えていた。以前と同様、違和感はなかった。
「何言っているの。まっくらじゃない」
ああ、トリ目か。
「ねぐらに帰るのか?」
「その前に寄る所があるのよ」
「どこに」
「どこでもない所」
カラスは首をめぐらし、わたしの後ろのほうを見た。つられてそちらの方に目をやる。貨物列車がまだ走っていた。
「あんた、連れてってよ」
「え?」
「人間なら夜目が効くでしょ」
「カラスに比べればね」
「決まりね」
カラスはバサバサと翼をうちふって飛び上がると、わたしの肩にとまった。
「糞で服を汚すなよ」
「失礼ね」
カラスは太いくちばしで方向を指示した。
「人間は飛べないんだぞ」
「だから這いずりまわっているんでしょ」
わたしはカラスを肩にとめたまま歩き出した。橋を渡り切ったところに線路をくぐる地下道があり、カラスはそこに入れと言った。
地下道は貨物列車が走るときの単調なごとん、ごとん、という音であふれかえっていた。人気はない。壁にはスプレーを使った前衛ペイント。寿命の尽きかけた蛍光燈がひきつったように明滅を繰り返していた。