カラス
6.

 わたしは竹薮の間にこしらえられたベッドに横になっていた。ベッドは細い竹の枝で編んだ目の細かい網を、竹の間に吊るしたものだった。何もかも竹でできていて、いい香りがするし、ベッド全体がいいぐあいにしなり、言うなればスプリングが効いていた。
 枕許に〈翁様〉がいた。帰れないと知ってわたしがあんまり落ち込んだので、慰めているつもりらしい。しかしカラスに慰められてもあまり嬉しくはない。
  とは言え、いつまでも落ち込んでいても鬱々とした気分が納まるわけはない。わたしは風変わりな話相手を楽しむ事にした。
 わたしは訊いた。
「翁、なぜ〈追い払う翼〉はここに来るんだい」
 〈翁様〉はコホンと咳払いした。
「あいつは気弱になっておるのだ。元気が無くなってしまった。そこで、ここに来るように伝えたのだ。ここは不思議な所でな。古来より疲労回復・精力増強・家内安全・子宝祈願に効果があるとされておる。現にここにずっとおるわしなど、この歳になっても病気一つせん」
「それじゃもう一つ。〈追い払う翼〉はわたしのことを〈誰でもない者〉と呼んだ。わたしが『わたしは誰でもない者ではない』と言うと『そう言ったでしょう』と〈追い払う翼〉は答えた。なぜです」
「人間よ、問うのは構わんが、自分で考えたか」
「そりゃ考えたさ。わたしはわたしであって、誰でもない者なんかじゃない。そうだろう」
「ほっほっほ。人間よ、お前さんは一体誰だ? その問いに答えることができるのか?」
「そりゃできるさ」
「ほっほっほ。ではやってもらおうじゃないか」
 わたしは答えようとして、自分の名前を忘れていることに気が付いた。わたしは仕方なく、自分がプログラマであることを説明した。
「ほっほっほ。それがお前さんの全てなのかい? それが他の誰かとお前さんを区別するものなのかい?」
 わたしは答えられなかった。他にもプログラマは山のようにいるし、自分と似た仕事に携わっているものも大勢いるだろう。
 しかし、そう、明確に答えられないのは自分の名前を失念しているからだ。わたしは思った。名前さえ判れば。わたしはそう〈翁様〉に言った。〈翁様〉はまたしても笑った。
「ほっほっほ。その名前は世界中でお前さんただ一人につけられた名前なのか? それにその名前がお前さんの全てを表わしているのか?」
 わたしは自分がのっぴきならないところに追い込まれていることに気が付いていた。〈翁様〉が求める答えは明白だったが、その答えを導き出すのは至難の技だ。わたしは〈私〉だ。他に答えようがないが、それでは答えを放棄したのに等しい。
 わたしは沈黙した。
「ほっほっほ。難しいだろう。‥‥そうさな、いいことを教えてやろう。二つ、ある。まず一つは、この問いに答えられたら家に帰る方法を教えてやるということ。もう一つは、〈どこでもない所〉とはどういうことか良く考えてみる、ということだ」
「帰る方法があるのか」
「ある。だがそれにはお前さんが誰なのか答えられなくてはならないぞ。それに答えられないものには役に立たないのだ。危険ですらある」
「‥‥わかった」
 闇の中に羽ばたく音がした。わたしは闇の中に一人取り残された。しかし心細さはさほど感じなかった。わたしは〈翁様〉が出した問題に心をうばわれていた。答えられれば帰ることができる。わたしは一心に考えた。
 どこでもない所。文字通りに受け取れば矛盾している。どんな所であるにせよ、それは『どこか』には違いないからだ。しかし、ここは自分の知っている世界でないことも確かなようだった。ここに来るまでに見た様々な光景は、微妙に現実とずれている。確かにここはどこでもなさそうだ。
 ほどなくして雨が降り出したようだった。はるか上の方で雨粒が竹の葉を打つ、さあああ、という音がしていた。雨粒は落ちてこなかった。
 雨音を聞いているとだんだんと眠たくなってきた。おりしも遠くから列車の走る時の単調な、かたんかたん、かたんかたん、という音が忍び込んできた。
 わたしは「胎内音」というものを聴いたことがある。母親の胎内は血流や呼吸などのリズミカルなノイズに溢れている。だから、赤ん坊に胎内音の再生音を聞かせると、安心して寝入ってしまうのだと言う。
 今聞こえている雨音や列車の音は、その胎内音にどことなく似ていた。ノイズには違いないが、決して不快な音ではない。穏やかな、滑らかなノイズだった。
 わたしは静かに眠りの中へ滑り込んでいった。

'The Raven'
Satoshi Saitou
Create : 1997.07.27
Publish: 2010.05.31
Edition: 2
Copyright (c) 1996-2010 Satoshi Saitou. All rights reserved.