わたしと〈追い払う翼〉は坂道を登っていた。蛍光燈が陰気な光を路上に投げかけている。街灯は等間隔に並んでいた。ひとつだけ、端がオレンジ色に染まった蛍光燈が、ときどき思い出したように光る。道は細く、曲がりくねっていた。わたしは〈追い払う翼〉に指示されるままに角を曲がる
家並みはそこで途切れ、暗い空き地が現れた。畑のようだった。闇夜を背景に、雑木林のシルエットがぼんやりと見えた。街灯の明かりはここまで来ない。〈追い払う翼〉は先へ急ぐよう言った。雑木林は闇のかたまりのように見える。
「あそこへ行くのか」
「そうよ」
〈追い払う翼〉はそれきり黙り込んだ。わたしは仕方なく闇の中に足を踏み出す。靴の下で草がかさりと音をたてた。わずかにあまく、夏草が薫る。
空気は乾いていた。微風が頬をなでる。音は無かった。全く耳に届かなかった。先ほどのバイクのエンジン音も、普段なら耳障りで仕方ない列車の音も、まったく聞こえなかった。ただ聞こえるのは草を踏む時の乾いた音だけ。それもごくかすかに。闇が音を吸い込んでいるようだった。
わたしは自分が竹薮らしきところに近づいていることに気が付いた。雑木林ではなかったようだ。暗がりにまだ目が慣れない。ここはどこなのだろう。近所にこんなところがあったか?
わたしが歩いている小径は竹薮の中へと続いていた。足元から雑草が消え、土がむき出しになっているようだった。
わたしは暗がりに沈む竹薮に足を踏みいれた。
さらさらさ‥‥。
竹の葉がこすれる音が耳に届いた。
‥‥さらさらさ。
それは乾いてはいたけれど、穏やかで、優しい音だった。
がさり、がさり。
足元で落ち葉を踏みしめる音がした。
がさり、がさり、がさっ。
「だれぞ」
大声が辺りに響いた。わたしはぎょっとして立ち止まった。〈追い払う翼〉が身じろぎする。
「〈追い払う翼〉です。〈翁様〉」
しばらく答えは返らなかったが、やがてしわがれた大声が返る。
「お前の他に誰かおるな」
「人間です」
「なんと!」
周囲のやぶが一斉にざわめき立った。
「人間だと!」
反響しているのか言葉が周囲のあちらこちらからてんでばらばらに聞こえる。声の主がどこにいるのかわからない。〈追い払う翼〉は翼をさかんにばたつかせた。わたしはこの場から逃げ出したくなった。
「お許し下さい、〈翁様〉。‥‥でも、この人間は変わっているので大丈夫だと思ったのです」
やぶがざわめく。
「うむ。確かにお前は人間の肩にとまっておるしのぅ」
この暗がりの中で見えるのか? わたしは思った。わたしには〈翁様〉とやらの姿は全然見えなかった。わたしは首をめぐらし、目を凝らした。
「ほっほっほ。星明りすらないこの暗闇の中でわしが見えるのが不思議なのだな」声は続けた。「だがな、人間。闇の中にいるのはお前だけなのだ」
ばっさ、ばっさと羽ばたく音がした。
「〈追い払う翼〉よ、いいかげんに人間から降りてやれ」
「はい」
わたしの肩が軽くなった。〈追い払う翼〉がはばたき、羽が頬をこすった。わたしに判るのは、音や、感触だけで、〈追い払う翼〉の姿は見えなかった。闇夜のカラスだ。
「なぜ、見えるんです」
わたしは思わず訊いた。〈爺様〉は笑う。
「ものを訊ねるときは、まず名乗るものだが、まぁ、それはよかろう。お前は人間だからな。多少の無礼は大目に見てやる。わしは寛大だからな。――人間よ、お前がものを見るとき、どこで見る。目か」
わたしはうなずいた。再び笑い声が響く。
「違うぞ。それは違うぞ、人間よ。目は単なるのぞき窓でしかない。ものを見るのは目ではない。心だ。心が見るのだ」
心眼というやつかい、とわたしは思った。カラスからこんな話を聞くはめになるとは思わなかった。
「人間よ、目は物事を正確に捕らえる。なにものも見逃したりはしない。だがしかし、目に写っただけで、ものを見ていることにはならん。心だ。心が何を見ているのか、何を見ていないのかを決めるのだ。――ここは明るいところだ。人間よ、ここはお前が今まで経験したことがないくらいに明るいところだ。そこが闇に見えるのは、人間よ、おまえの心が闇だと思っているからだ」
「じゃあ、ここが闇ではないと思えば良いのか」
わたしの反問に笑い声が答える。
「口で言うほど簡単なことではない。簡単なことではないのだぞ。なぜなら、お前の心はお前自身が触れることはできないからだ。いや、安易な気持ちでは、触れることはできない。お前が自分の心だと思っているものは、実は、極々一部なのだ。お前は自分の心全体に触れることは決してできない。なぜだかわかるか」
わたしは首を横に振った。たぶん〈翁様〉には見えているはずだろう。
「なぜなら心全体に触れるには、心全体より大きな心を持たなくてはならないからだ。お前は自分の心より大きな心を持つことができるか? できるわけなどない。心の有り様を変えるのはことほどさように難しいことが解るだろう」
正直に言って、わたしは心の話などどうでもよくなっていた。その手の話なら、いんちきくさい宗教あたりから、いくらでも手に入る。
「ところで、いい加減帰らせてもらうよ」
「そりゃ無理だ」
「なぜ」
「〈追い払う翼〉から聞かなかったのか?ここがどこなのか」
「〈どこでもない所〉だろう」
「〈どこでもない所〉が世界のどこにあると言うんだ? 〈どこでもない所〉が〈どこかにある所〉に続いていると思うのか?」
一理ある。しかし、ここに来れたのだから今来た道を引き返せば良い。違うだろうか。