地下道を抜けると空は暗くなっていた。貨物列車はまだ走っている。貨物車輌が連なり、壁のようだった。薄暗がりに沈み、コンテナやタンクに書かれた文字を読むのは難しい。
「お前、何にも見えないだろう」
わたしはカラスに言った。
「前よりは多少見えるわ」
わたしは黙ってカラスを見つめた。前より多少明るくなったとでもいうのだろうか。
しかし、さっきより暗くなっているのは確かだし、橋でカラスは「まっくら」だと言った。どういうことなのだろう。
「ほら、さっさと先へ急いでよ」
「見えるなら自分で飛べよ」
「だめ。こわいわ」
「こわい? こわいものがあるのかい」
「失礼ね。つつくわよ」
そう言うなりカラスが身構えたので、わたしは仕方なく歩き出した。川に沿った細い道だった。暗い川の向こうで東口ターミナルの巨大な銀のオブジェがライトアップされている。
「お前、名前なんていうんだ」
「〈追い払う翼〉よ。あんたは」
「わたしは‥‥」
答える事ができなかった。自分の名前が出てこない。記憶喪失? いや違う、今日何をしていたのか、克明に思い出すことができる。名前だけが出てこない。
「自分の名前もわからないの? じゃあ、わたしが名付けるわ。あんたは〈誰でもない者〉よ」
「〈誰でもない者〉だって? わたしは〈私〉だ」
「だからそう言ったじゃない」
まただ。カラス、いや〈追い払う翼〉の言うことには一貫性がない。直前に言ったことすら簡単に翻す。とはいえ、カラス相手と言い争っては人間の沽券に関るというものだ。
「なぁ、〈追い払う翼〉。なぜ、そういう名前なんだ」
「そりゃあ、見てわかるでしょう」
〈追い払う翼〉はちょっと伸びをすると、両の翼を広げて見せた。カラスは黒いというが、実際には虹色の光沢がある。
「この艶。毎日手入れしているんですからね」
「で、なんで〈追い払う翼〉なんだ」
〈追い払う翼〉はぐうっ、と首を伸ばすとわたしを睨みつけた。耳を軽く噛む。いてっ、とわたしは思わず言った。
「これから、話そうと、していたの」〈追い払う翼〉は首を引っ込めると、翼を2度、3度バサつかせた。「わたしは群れの槍方頭を努めているの。槍方というのは群れを守る役目を仰せ付かった者のことよ」
「守るって何から」
「目玉ほじくり出されたい? 話し終わるまで黙っていなさい。‥‥槍方が相手にするのはいろいろあるわ。小雀共を餌場から追い払ったり、鳶を撃退したり。危険を知らせるのも槍方の勤めよ。わたしは子供の頃から飛ぶのが早くて、気が強かったから見込まれていたのよ」
「へぇ、すごいんだな」
〈追い払う翼〉は誇らしげに胸を張ると、ツンとすましたように前を見た。
「ムダ口はいいから、急ぎなさい。人間」
「へいへい」
路地を抜けるとバスターミナルへ通じる大通りに出た。普段の日なら、この時間は帰宅する人や居酒屋へ繰り出そうとする人が大勢行き交っているはずだが、今夜は様子が違った。歩道に人影はなく、車の通りも少なかった。ダンキンドーナツの店内は煌々して明るかったが、客も店員の姿も見えなかった。
白のシーマが猛スピードで脇を走り抜けた。交差点をそのまま突っ切り、建物の陰に消える。ゆるい坂を降り切ったところの交差点では青灯がゆっくりと明滅を繰り返していた。信号待ちの人々が大勢、角で立ち止まっている。彼らはただ突っ立っていた。信号を見ているわけでもない。何の表情も無い。何もしゃべらず、身じろぎもせず。
わたしは信号を見上げた。赤の明滅は一旦停止、黄の明滅であれば徐行。青の明滅は?
白のシーマが猛スピードで脇を走り抜けた。交差点を突っ切り、建物の陰に消える。
「どっちに行くんだい」
わたしは〈追い払う翼〉に訊ねた。
「あっちよ」
太いくちばしで交差点の方を示す。わたしはゆるゆるとそちらへ歩き出した。〈追い払う翼〉は急かさない。明滅する青い信号をぼんやりと見ながらわたしは〈追い払う翼〉に訊ねた。
「なぁ、ちゃんと教えてくれないか」
「何を」
「どこへ行くのかを」
「どこでもない所よ」
「そんな所があるのか」
「なければ行けないわ」
わたしはあきらめてため息をついた。これでは禅問答だ。白のシーマが猛スピードで脇を走り抜ける。そのシーマは交差点に差し掛かっても速度を落とす気配は無く、そのまま直進して行った。
わたしは人ごみを掻き分けて交差点に出ようとした。人々には手ごたえが無かった。押せば下がるが、それだけだった。わたしの通った後には、人ひとり分が通れる空間が残った。
角に立ち、歩行者用信号を見上げる。ふと、あの信号は決して変わらないのではないかという思いが浮かんだ。青信号に変わると思わせておいて、決して青信号に変わることはない。
白のシーマが交差点を走り抜けた。
「右へ曲がって」
〈追い払う翼〉が言った。交差点を渡らなくてもよいらしい。
交差点の向こう、道路を挟んだ向こう側にはスーパーマーケットがあった。そのスーパーは暗がりの中、周囲に光をまき散らしていたが、外から見る限り、店内に人影はなかった。
「無駄に明かるいな」
わたしは呟いた。
「きれいじゃない」
〈追い払う翼〉が言う。そういえばカラスはきらきら光るものに惹かれるのだっけ。
「人間の作る物はたいてい好きになれないけど、ああいうのは好きよ」
「お気に召されたようで、光栄至極」
〈追い払う翼〉が耳をつついた。
「あんた、今、わたしのこと馬鹿にしたでしょう。良く判らなかったけど」
「良く判らないで、つつかないでくれよ」
わたしは耳に手をやった。血は出ていないようでほっとした。
「ねぇ、あんたは何をしているの」
〈追い払う翼〉が訊いた。わたしはちょっと答えに詰まった。わたしの職業はプログラマだが、それをカラスにどう説明すれば良いのだろう。
「いろんな事を覚えられるモノを作っているんだ」
わたしは答えた。わたしはデータベースの設計に携わっている。
「そんなもの作ってどうするの」
「人間には役に立つんだよ」
「ふうん。じゃあ、あんたは何に使っているのさ」
「いや。使っていないよ」
〈追い払う翼〉が心持ち羽ばたく。驚いたようだった。
「じゃあ、あんた、自分には関係ないものを作っているの?」
「関係なくはないよ。それを作ることで食っているんだから」
「でも、あんたは使わないんでしょう」
「そうだよ」
「バッカみたい」
わたしは腹を立てたが、何も言い返さなかった。カラスに何が判るというのだ。
わたしと〈追い払う翼〉は車の通りが絶え、人の姿もない道を歩いた。この道をまっすぐ歩けば、大船に出る。大船まで行けば鎌倉は目と鼻の先だ。わたしはこの道を歩いて鎌倉へ行こうかと思ったことがある。なぜかは判らない。たぶん実際に歩いてみればその理由もはっきりしたのだろうけど、結局歩く事はなく、その理由も未だに判らない。
「ねぇ、あんた何考えているの」
わたしはつと、〈追い払う翼〉を見つめた。
「さっきから黙りこくっているじゃない」
「自分はカラスなんか肩に載せて何をしているのだろう、一体どこへ行くのだろう、ってこと」
〈追い払う翼〉は耳障りな鳴き声を上げた。
「何言っているの。あんた気が付いていないんだ。あんたは何もしちゃいないし、どこにも行ってない。あんた、わたしがいなかったら今もずっと橋の上でぼんやりしてたさ」
「そんなことはない」わたしは思わず言い返していた。「そんなことはない」
「可哀想な人間」〈追い払う翼〉はやめない。「何かを作ったつもりになって、どこかに行ったつもりになってる」
「本当にそうなのかい」
わたしは訊き返した。
「そう、だと思う」〈追い払う翼〉は途端に気弱になった。「ああ、そうだ〈翁様〉に会えばちゃんと教えてくれるよ。〈爺様〉がそんなことを言っていたんだ」
「翁? ひょっとして、これから行こうとしているのは‥‥」
「〈翁様〉がおわすところよ」
〈追い払う翼〉はかしこまって言った。
「その〈翁様〉というのはどんな、カラスなんだい」
わたしはうっかりして、「カラス」ではなく「人」と言うところだった。
「7回の生を受けた方よ。その智慧は闇を払い、その知識は天上の樹よりも生い茂ると言うわ」
「へぇ、すごいんだなぁ」
「もちろん、すごいのよ」〈追い払う翼〉は得意気だ。「わたしはその〈爺様〉の一番槍なんだから。‥‥あ、そこを曲がって」
わたしと〈追い払う翼〉は小さな交差点にさしかかっていた。信号機は赤、青、黄の三つが灯っている。
2車線道路の向こう側にコンビニあった。そこもやはり無人で、しかし、店内の照明はぎらぎらとまぶしく直視することができない。店内から漏れる明かりで店頭の駐車場が真昼のように照らされていた。駐車場に落ちる影がアスファルトに焼き付きそうだ。歩行者用の信号機は赤が明滅を繰り返していた。信号が変わる気配はない。
わたしはこわくなった。この景色はすべて普段見ているものから出来上がっているが、しかし同時に、普段見ている景色ではぜったいに有り得ないという確信があった。こんな景色は嘘だ。しかし、自分は今ここにいて、この景色を見ている。
「立ち止まらないで、はやく向こうに渡るのよ」
〈追い払う翼〉が耳元で騒いだ。
「はやくしないと渡れなくなる」
わたしはぎゃあぎゃあという声にせきたてられて車道に足を踏み出した。道はここから少し先で丘を巻いてカーブし、その先を見通す事ができない。しかし、丘の向こうからエンジン音が聞こえていた。
「はやくはやく」
わたしが車道を渡りきり、コンビニの駐車場に立った時、カーブの向こうからヘッドライトの強い光が幾つも現れた。バイクだった。派手な改造を加えた、言ってしまえばあまり趣味の良くないバイクの群れが、道路いっぱいに広がって走って来る。エンジン音を除けば彼らは静かだった。静かに、一糸乱れぬ隊列を組んで、改造バイクの群れが走って来るのだった。よくあるような空ぶかしや、蛇行運転をするバイクはなかった。法定速度を順守して走っている。ただ走っているだけだった。ライダー達はまっすぐ前を見つめている。その隊列は途切れなかった。いつまでも列は続く。
「なにぼさっとしているの。〈翁様〉の所までもうすぐよ」
わたしは我に返った。考えても仕方ない。〈追い払う翼〉に付き合うほかなさそうだ。