カラス
7.

 わたしは耳元で囁く声にうっすらと目を開いた。薄暗い中に、ぼんやりと輝く裸の女性がわたしの上に屈みこんでいた。艶のある黒髪と濡れた瞳。顔と胸が異様に白い。ぎょっとして目が覚める。
 改めて見ると、それは〈追い払う翼〉だった。わたしの胸に乗っかって、こちらを見下ろしている。
「なんだお前か」
 〈追い払う翼〉はおもむろにわたしの鼻を噛んだ。
「痛っ」
「お前呼ばわりはないでしょう。失礼なやつね。そんなことじゃ交尾できないわよ」
「大きなお世話だ。下品なやつだな」
「悪かったわね。とっとと起きなさい。〈翁様〉がお呼びよ」
「じゃあ、どいてくれ」
 〈追い払う翼〉は薄暗がりの中に飛んだ。その後ろ姿を見送ってから、わたしは竹編みの寝台の上で身を起こした。雨は上がっていた。
 〈翁様〉が呼んでいる。
 昨夜〈翁様〉から出された謎掛けをわたしは忘れていなかった。重い気分のまま寝台から降りる。「答」は出ていなかった。わたしは〈私〉。それ以外にどう言いようがある。言葉は貧弱だ。
「起きたか、人間」
 わたしは〈翁様〉の声を頼りに歩いた。今はいつなのか、見当がつかなかった。この暗さからすると、明け方にはまだ間があるようだが、頭の方は十分な睡眠を取った後のようにすっきりしていた。
 竹薮を出ると、せまい道に出た。でこぼこの赤土がむき出しの地面で、ぱらぱらと落ち葉が落ちていた。竹薮と反対側の土手には椿が並んで生えていた。椿と椿の間には竹がわたされ、柵になっている。
 カラスが一羽、柵にとまっていた。
「答は出たか」
 そのカラスが〈翁様〉だった。〈翁様〉は小首をかしげてわたしを見据えていた。
「わたしは私だ、としか言い様がない」
「そんな答ではだめだな」
「‥‥だろうな」
 何の明かりを映したのか、〈翁様〉の両目が一瞬、白く光った。左の羽をゆっくりと開いて、くちばしで手入れした。
「〈どこでもない所〉とはどこか、解ったか」
「ここだろう」
「そのとおりだ」
 〈翁様〉はわたしをじっと見ていた。
「ま、答えられないなら仕方ないな。――〈追い払う翼〉の相手でもしてやってくれ。なかなか美人だろう」
「はぁ」
 羽の艶が素敵ですね、とか言おうと思ったが、あまりにも空々しいのでやめた。
「ゆっくりしていけ。腹は減っていないだろう」
 言われたように空腹感はなかった。なぜなのか、わたしには判らなかった。

'The Raven'
Satoshi Saitou
Create : 1997.07.27
Publish: 2010.05.31
Edition: 2
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