「自分が何者か解ったと?」
〈翁様〉が言った。わたしは道端の草むらに腰をおろしていた。〈翁様〉はわたしの前に降り立っていた。こちらを見上げる目が時折白く光る。
「解ったよ」
わたしは〈翁様〉の目を見つめながら答えた。
「では訊こう。――お前は何者だ?」
わたしは一拍おいて、自分の胸を叩いた。語るべきではなかった。言葉にすれば嘘になる。
「‥‥ま、人間にしては上出来といったところじゃな」
〈翁様〉はくちばしで羽の手入れをしてから、おもむろに言った。
「だが、まぁ、それが判っていれば大丈夫だろう」
「大丈夫、って何がです」
「お前さんを帰すためにだよ。この世界は入るにたやすいが、戻ることは生半なことではかなわん」
わたしは怪訝そうな表情をしたに違いなかった。〈翁様〉はカァカァと鳴いた。
「いずれ判る。その時がくればな。――さて、〈追い払う翼〉を探しに行くか」
わたしは立ち上がった。
〈翁様〉は一足先に竹薮へ飛んでいく。わたしは〈翁様〉の後ろ姿を見送りながら、先程答えたことについて思い返していた。答えは単純だった。しかし、わたしにとっては重い答え方になった。
名前は体を表わさない。それはインデックスでしかない。例えば〈戸塚〉という地名は〈戸塚〉と名付けられた地方のインデックスであって、〈戸塚〉の土地に含まれるすべての事象、要素を含むものではない。もし含むとすれば、〈戸塚〉の2文字を見る(か聞く)だけで、〈戸塚〉がどういう土地であるのか、詳細に知ることができるだろう。しかし残念ながらそんなことはない。有り得ない。
しかもこの土地には地名すらない。だがしかし、厳としてこの土地は有る。確固たる現実として、この土地は存在している。名前があろうとなかろうと、そんなこととは関係なくここはある。この土地全てを表現するには、土地自身をもって語らせるしか他ない。
それが答えだ。
〈わたし〉は〈わたし〉の存在をもって〈わたし〉なのだ。しかし、それを言葉にすれば何も言わないのに等しく、かといって「自分の特徴」を羅列したところで言い尽くせるものではない。〈言葉〉はそれほど豊かなものではない。今はなぜ〈追い払う翼〉が〈誰でもない者〉と呼んだのかがぼんやりと理解できた。「誰か」という問いの答えは決して〈わたし〉そのものにはならない。
言葉にできるものではないのだ。それは言葉では伝えられず、しかし言葉にできなければ片鱗すら伝えることができない。
わたしは竹薮に入った。薮の中はだいぶ明るくなっていた。羽ばたきの音が薮のあちこちから聞こえてくる。
「〈翁〉! 〈追い払う翼〉! 早くわたしを返してくれ」
突然真向かいにカラスが現れ、わたしに向かって飛んできた。わたしは思わずよけた。
「ばか! とんま! よけるな!」
ばさばさっ、と荒々しい羽音が背後に聞こえた。〈追い払う翼〉だった。はっとして振り返ると、竹と竹の狭い隙間に入り込んで悪戦苦闘している〈追い払う翼〉の姿が見えた。
「わるいわるい」
わたしは笑いながら〈追い払う翼〉に近づくと、腕を竹の間に差し出した。〈追い払う翼〉は腕にとまった。羽をたたむ。〈追い払う翼〉は神妙な面持ちでわたしを見た、ように見えた。カラスの表情はよくわからない。
「あんなに勢い良く飛んで来るから、思わずよけたんだよ」
「悪かったわよ」
「責めてるわけじゃない」
もうひとつの羽音がして、地面におりたのがわかった。〈翁様〉なのだろう。
「人間」〈翁様〉がわたしの背中に話し掛けた。奇妙なことに、その声は地面よりもずいぶんと高い位置から聞こえるようだった。「帰してやろう。心しろ」