空は白みはじめていた。杉田へ向けて榊は車を走らせたが、酷使された車は栗木にさしかかったあたりで息絶えてしまった。榊はTYISPに自損事故と報告した。10分後、現認ドローンが音をたてて飛んで来て、車の損壊状態を確認した。その「事故」に対応する事故報告が他には無かったので、現認ドローンは榊の報告をそのまま認めた。榊は車から、車載電話と車載コンピュータのシリコンブロックを抜きだした。
「ここから歩いていける距離か?」
榊は訊いた。
「うん。15分くらい」
「疲れたよ」
水口は元気そうに笑った。
「おじさんだから」
「若いなら、これ持ってくれ」
榊は水口に二つの電話を持たせた。水口は素直に受け取った。並んで歩き出す。
「お金も要求すれば良かった」
「バカ言え。データを盗まれただけでも連中にとってはプライドを傷つけられたんだ。これで大金を要求されたら、なりふり構わず、行動にでたよ」
「行動って」
「俺達を消して、全てのサイトを急襲して潰し、システムをそっくり入れ換えただろう」
「まさか。そんなこと」
「NTNをナメてるな。金目当ての盗みと思われたら、連中は慈悲なんてかけちゃくれない。今までもそうだったんだ」
朝の空気は湿っていて、心地よく冷たかった。かすかな靄の向こうで信号が赤から青に変わった。道路に走る車は無く、静かで、穏やかだった。
「ねぇ、ルールの味方って何のこと」
「なんだい、そりゃ」
「自分で言ったことじゃない」
榊は思い出した。
「あれははずみで言ったんだ」
「なんだ」
「待てよ、そうじゃない。つまりだ、自分のデータに手を出すなと言うなら、自分も相手のデータに手を出さないってことだ。お互いに」
「‥‥当たり前じゃない」
「だから、はずみだと言ったんだ」
水口はくすくす笑った。榊は不機嫌に黙り込んだ。
「ねぇ、これからどうするつもりなの」
「‥‥とりあえず、フリーランスデータバンクに問い合わせて、俺の信用度がどうなっているのか調べないとな」
「どうして」
「どうしてって‥‥俺には後ろだてが無いからな。系列は実力主義で自然と淘汰されていくが、フリーはそうじゃない。クライアントがフリーランスを使う時はフリーランスデータベースに問い合わせるんだ」
「たいへんなのね」
「楽な仕事なんてないさ。‥‥能力さえあれば楽に感じることはできるが」
水口は黙っていた。
「信用度がゼロになっていることは無いだろうが、ランクは下げられているだろうな。実入りが減っちまう。今住んでいる所は引き払わないとならないな」
「どこに住むの」
「さぁね。探さないと。YSPに近いほうがいいが、高いし」
「わたしのところに来ない? 仕事場は別にあるんでしょう」
「まぁ、たいがいは常駐だし、そうでなくても、情報端末があれば仕事はできるし。‥‥いいのか?」
「今かりている所が広すぎて。家賃も高いし。折半で、どう?」
「まぁ、杉田だしな。リストに書いておくよ」
「ねぇ、もし、信用度が下がっていなかったら、どうするの」
「そりゃ、そのときは‥‥」
榊は、水口が身をすり寄せて来たことに気が付いた。
「そのときは?」
「‥‥そうだな、それでもリストに挙げておくよ」
水口は柔らかな笑みを浮かべた。榊もつられて微笑む。
「ま、それよりも、まず最初にすることは‥‥」
水口が榊を見つめた。
「悪いけど、ベッドでもソファでも何でもいいから眠れる所を貸してくれ。2
4時間は眠れそうだ」
水口は声をあげて笑った。榊はその笑い声を聞いて、悪くないなと思った。