榊はハンドルを握りながら欠伸をかみ殺した。ハードな仕事だった。3日を通しての睡眠時間はせいぜい8時間。しかしクライアントはそれに見合う報酬を支払ったのだから文句はなかった。短い納期で大きな収穫。彼のデータリサーチ能力のことだ。
クライアントの漠然とした要求を分析し、明確にし、広大なネットワークにピンを刺す。最近はデータベース検索用のAIも出てきたが、パターン認識と連想能力の面で人間には及ばない。そして榊は人間の中でも際だったデータリサーチャーだった。
榊は車で国道15号を南下していた。新子安駅前の交差点を通り過ぎる。ダッシュボードに埋め込まれたデジタル時計は午前1時半を示していた。助手席には先ほどドライブスルーで買ったコンビニ弁当がある。
榊はため息を一つつくと、車を路肩に寄せ、止めた。
耐水セルロースでできた弁当のパッケージを取りだし、車載ターミナルの電源をいれた。ダッシュボードの一部が開き、そこから多目的ディスプレイがせりあがる。榊は片手でグローブボックスを開けると、インカムを取りだし、頭につけた。
「港ネットにログオン」
一言そう言うと、榊は弁当を食べ始める。昔もそうであったように、不味い弁当だった。米は良いのだが、おかずはどうしようもない。
内心ためいきをつきつつ食べる榊の目の前で、車載ターミナルは非合法ネットへのアクセスを行う。NTN(日本テレネットワーク)が公開している回線秘匿手順に従えば、自ターミナルはまずNTNの交換器との間で半公開鍵暗号方式による秘匿回線を確保し、次いで、交換器は相手ターミナルとの間で同じ暗号化手順で秘匿回線を確保する。最後に自ターミナルと相手ターミナルとの間で秘密鍵暗号方式による秘匿回線を確立する。
この回線確立方式では、最終的な段階での暗号/複号方式が比較的簡略なもので良いため、ターミナルの負荷が小さくてすむ。自ターミナルと相手ターミナルの固有鍵を暗号化函数に放りこんだ結果をキーにした暗号化/複号化を一段行うだけで良いからだ。半公開鍵暗号方式ではこの暗号化/複号化が二段となり、ターミナルのオーバーヘッドが増える。データ通信ならいざ知らず、普通の会話では支障を来すだろう、というのがNTNの見解だった。
榊の車載ターミナルは複雑な通信手続きを十数秒で済ませる。ディスプレイには〈港ネット〉のログインメッセージが表示される。古くさい、ノスタルジックなやり方。
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CONNECT:144Gbps/VSHDLC-NTNstd.
FreeUNI+ (minato.or.globe) (ttyps3)
login: beowolf
password: ********
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Wellcome to Minato-Network
〈最後の自由BBS・港ネットにようこそ〉
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UserClass = Expert
メイルはありません。
コマンド>_
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「メインボード」
榊がインカムに命じると、BBSのメインボードに登録された最新の発言が、ディスプレイに一つづつ表示される。それらの発言は榊と同じく〈港ネット〉の登録メンバーによるものだ。
榊の目が、ある「発言」に止まる。
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発言者:ろるふ(MIN023)
題名 :おめでとう
おめでとう。
オフラインで聞いたんだけど、〈みるこーにぃ〉さん
婚約したんだって? おめでとう。氷の美女も最後は
溶けるんだねぇ。
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榊は微苦笑する。〈みるこーにぃ〉は〈港ネット〉が非合法になる前からのメンバーだ。〈ろるふ〉も同じ。榊自身そうだ。
榊は〈みるこーにぃ〉に以前会ったことがあった。〈港ネット〉が非合法化した後だったので、本名は聞かなかった。榊も名乗らなかった。
彼女を見た時、なるほど美女というものはいるのだ、と感心した。美人すぎて邪な気持ちにもなれなかった。ただ、話してみると普通の人とかわらないのでほっとしたことを覚えている。「氷」という印象はあまりなかった。
「みるこーにぃさん、おめでとう。相手の人がうらやましいね。お幸せに」そしてふと思いつき「これで、独身野郎の夢がへっちまった」
榊の発言は〈ろるふ〉の発言に対するコメントとして〈港ネット〉に登録される。
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発言者:べおうるふ(MIN033)
題名 :みるこーにぃさん
〈みるこーにぃ〉さん。おめでとう。相手の人がうら
やましいね。お幸せに。これで独身やろうの夢がへっ
ちまった。
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〈べおうるふ〉が榊のハンドル名(偽名)だった。表の――つまり、非合法ではない――ネットワークでは、ハンドル名は余興のようなものだが、非合法ネットでは切実な問題だ。いっさいの実名を使ってはいけない、というのが不文律になっている。
榊は次の発言を表示させた。
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発言者:ハンドル(MIN029)
題名 :神戸で
神戸で。〈六甲山ネットワーク〉というBBSサイト
がNTNに摘発された。NTNはシスオペ宅の電話回線
を盗聴してデータ通信をしている証 拠を揃えたらしい。
半公開暗号方式は安全だとNTNは保証するけど、NTN
自身が複号に必要な情報を持っているんだから、ちっと
も安心できな いよな。
〈港ネット〉はオリジナルの暗号化をしないか。
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〈ハンドル〉は技術知識はあるらしいのだが、やや思慮に欠ける発言をする。次のコメントがそれを指摘する。
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発言者:くらっど(MIN001)
題名 :うーん
うーん。通信データの暗号化はできるけど、デジタル
回線での暗号化っていうのは、それとは別のレベルの話
だから、関係ないんだな。デジタル回線に流れるデータ
を複号した時に音声にならなかったらアウトでしょう。
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〈くらっど〉が〈港ネット〉のサイト管理者を務めている。〈データ通信規制法〉が制定された時、〈港ネット〉の存続を決定したのは彼(あるいは彼女か。榊は会ったことがない)であり、榊はそのことで〈くらっど〉に敬意を払っていた。特に〈シンパシー・ネットワーク〉のサイト管理者がNTNに告発され、自殺したという話を聞いてからはなおのことだった。
榊は〈港ネット〉の掲示板を読みながら、弁当を食べた。不味くても食事には違いない。
「ログオフ」
榊がインカムに命じると、〈港ネット〉との回線が閉ざされた。車の警報装置を作動させると、シートをリクライニングさせ、目を閉じた。夜明けまで仮眠を取るつもりだった。薄く目を開くと、直線で切られた夜空に、雲がぼんやりと白く光って浮かぶのが見えた。
しばらく仕事はとらないでおこう。
榊はそう思い、目を閉じた。しばらくのんびりするんだ。
のんびり‥‥。
榊の意識は混濁に包まれ、音も光も消えていく‥‥。
「ポリス・アラーム!ポリス・アラーム!」
警報装置が叫ぶ声で榊はたたき起こされた。反射的に時計を見ると、30分も寝ていない。悪態をつきながら、ナビゲーションシステムを起動する。
「交通付加情報を出せ」
榊の指示を受けたナビゲーションシステムはTYISP(東京-横浜産業帯保安警察)と交信し、状況を確認する。フロントガラスにグラフィックが投影された。
‥‥高速神奈川1号横羽線を速度オーバーのバイクと数台の車両が南下中。付近のパトカーが阻止行動のため移動中。一般車両はご協力下さい‥‥
グラフィックによれば、TYISPは横羽線の子安ランプの南に阻止線を張っていた。問題の暴走車は生麦ランプを通過しようとしていて‥‥
冗談じゃない。
榊は急いでエンジンを始動させた。ここで捕りものにでもなったら、どんなとばっちりをくうか判ったものじゃない。
8筒頭スターリングエンジンがあたたまるのももどかしく、榊は車を出した。グラフィックは助手席側に出したままにする。暴走車は子安ランプの手前まで来ている。数台のパトカーとすれ違う。さっきまで榊のいた交差点で暴走車を抑えるつもりらしい。
くそっ。やっぱりフラットに戻るのが利口か。
榊は警報装置を切った。グラフィックは表示したままにする。暴走車は子安ランプを降り、15号に入ろうとして‥‥。
バックミラーがまぶしく光った。驚いて振り返ると、シート越しに火球がふくれ上がるのが見えた。
『警報!警報!暴走車両が警察の阻止線を突破し、国道15号を南下中。付近の車両は注意して下さい。繰り返します。暴走車両が‥‥』
ナビゲーションシステムがTYISPの広報無線を流す。グラフィックによれば、暴走車に10万の懸賞がかけられている。榊はアクセルを踏み込んだ。ナビゲーションシステムは後方から接近中の単車を捉えており、その相対速度を40キロと伝えていた。距離400メートル。36秒後に接触。
『そこのポンコツっ、邪魔だ!』
車間無線から女の声。榊が驚いて、相手を確認しようとする間に、車の横を何かが走り抜けていく。何であるのか、榊には判らない。
『今度会うときは路肩にどいてろ!』
再び女の声。それが、今追い抜いていったバイクのライダーであることに気が付き、かっとなる。ナビゲーションシステムはまだ、単車を追跡している。アクセルを踏む。前輪が空転し、一瞬速度が落ちるが、摩擦熱によって前輪の偏平率が増大するとタイヤはすぐに路面を掴み、猛然とダッシュした。相対速度はマイナスからゼロへ。ゼロからプラスへ。
うぬぼれやがって。
高加速を感知し、車両コントローラがフル稼働する。加圧ポンプが予測動作を開始し、加速度に逆らってエンジンへ一定量の水素燃料を送り込む。ステアリングがハンドル操作から切り放され、セミオートモードへ。サスペンションがアクティブモードに移る。そのモード移行が滑らかなので榊は操縦感覚の変化に気が付かない。
「ロードマップ」
助手席のグラフィックが付近の道路地図に変わる。
後悔させてやる。
榊はアクセルをさらに踏み込む。
「TYISP、こちら横浜23、C2344。懸賞指定標的を追跡中。識別されたし」
『‥‥横浜23C2344、そちらの声紋を確認。資格確認。IFF登録。注意されたし‥‥』
薄明るい夜空をバックに横浜駅の巨大なビル複合体がそびえあがる。