榊はダイヤモンド地下街が5年前、南へと延長されていたことを思いだした。呼びだしたロードマップによれば、地下街は横浜病院前まで伸びている。もし、ガススタンドに寄るとすれば‥‥。
榊はめぼしをつけたガススタンドへ急ぐ。あのバイクがいままで取ったコースから考えて、南へ向かうのは確実なように思われた。環状1号を疾走し、浅間交通管制局の脇を左折する。川に突き当たり、左折。あたりをつけたガススタンドは目の前。
榊は路上に何か浮かんでいることに気が付いた。ガススタンド前にはあの目立つスーツを着た女が立っている。髪がなびいていた。
榊は一瞬の間をおいて事態を理解した。
「左ドアスライド!」
榊が叫ぶと、助手席側のドアホールド機構がドアをスライドさせる。
「スピーカー」
榊は車を走らせ続ける。
「乗れ!」
女が榊の方を見る。車はヘリの下にもぐり込んだ。女は素早い身のこなしで開いたドアの縁を掴み、助手席に潜り込む。榊は急ハンドルを切り、無惨に破壊されたガススタンドに飛び込む。そのままハンドルを切り続け、ターン。タイヤが鳴る。鳴り続ける。屋根を何かが叩く。榊はガススタンドから出ると、右へハンドルを切った。バックミラーにはヘリのシルエットが上昇しつつ、ターンしているのが見えた。
藤江橋のたもとで大きく右折。環状1号線に出る寸前に左折し路地へ入る。ゴミ缶をはねとばしながら、国道16号のスロープ横の路地へ。そして左折。
「どこに行くの」
女が訊く。榊は答えない。
路地は帷子川にぶつかり、左右にわかれる。榊は迷うことなく右へ。国道16号が帷子川を渡る橋の下で止まる。
榊は運転手側のドアを開けた。ドアホールド機構が力のかかる向きに従い、スライドはしない。普通のドアのように開く。キーを抜き、外へ出た。壁に身を寄せ、外をうかがう。ヘリの音も姿もない。
榊は目を反対側に転じた。暗くたゆとう帷子川の向こうに、東海トラフィックの西横浜駅が見えた。さすがに終電の時間はすぎているので、灯は無い。その無人のプラットフォームを貨物列車が単調な音を立てて走り抜けようとしていた。列車は川沿いに向きを転じ、西へ走る。厚木基地への補給列車なのだろう。そのさらに向こうには国道1号の水銀灯の列が見えた。
女が車から出てきた。両腕を車の屋根に乗せ、寄りかかる。
「助かった。礼を言うわ」
「礼を言うのは早いかもしれないぜ」
「なぜ」
「TYISPに売るつもりかもしれないだろう」
女は顔をのけぞらせた。白い喉が見える。笑っているらしかった。
「‥‥でもそんなつもりは無い、でしょう」
「どうかな。屋根には穴を開けられちまった。その修理代は欲しいね」
「あらまあ、王子さまは危険をいとわないものじゃないの」
「それじゃ、あんたは何様だい」
「お姫様」
榊は苦笑した。
「ガススタンドのあれ、あれは一体なんだい‥‥」
「しばらくわたしとつきあう覚悟があるなら教えたげる。無いならバイバイ」
「あんた、運び屋か何かかい」
「近いわ。今日はね。‥‥わたしはNTNに追われているのよ。全部聞きたい?」
「話を聞きたけりゃ、言う事を聞けと」
女は頷いた。榊はためらった。なにかヤバイ事に片足を突っ込んだということは見当がついた。しかし、それがどのくらい深いのかが判らない。
「聞くだけ聞いて、あんたを置いていくこともできるぜ」
「そうしたら、そちらのことをNTNに全部話すわ。誰だか知らないけど、NTNに睨まれても平気でいられる?」
榊はかぶりを振った。とんでもない。
「それじゃとっとと置いて行った方が良さそうだな」
「そうする? わたしの仕事が済んだら、キャッシュになるわ。山分けしてもいいのよ」
「気前がいいな」
「わたしは必要な分だけ手元にあればいいって主義なの」
「幾らくらいだ」
「商売のやりかたにもよるけど、だいたい、そうね、一千万てとこかしらね」
「本当かい」
「あんたに商才があればね」
榊は考え込んだ。山分けでも五百万。悪くない金額だ。しばらく仕事をとらなくて済む。
「いいだろう」
「決まりね。じゃ、杉田まで行ってくれない」
「なにがある」
「わたしのフラット」
榊は頷き、車に戻った。
「そういえば、名前を聞いていなかったな」
「水口。水口祐子。そちらは」
「榊。榊明」
「よろしく」
「こちらこそ」
榊は車をそろそろと動かした。シールドを降ろして、空に注意する。
「ねえ」女が聞いた「よくこんな場所知っていたわね」
「昔から知っていた」榊はそっけなく答えた「初めて車の中で女とヤったのがここなのさ」
「わたしともするつもりだった?」
榊はかすかに顔をしかめる。
「‥‥ガキの頃の話だ」
彼は上空に注意しながら国道16号へ車を走らせる。
国道16号を南下する。国道1号を横切り、そのまま黄金町へ向かう。この道は新16号と呼ばれている。黄金町で東海トラフィック京急線のガードをくぐると、旧16号に合流する。
車は藤棚町にさしかかったところだった。この付近は近年の都市再開発計画で大きく手が入っていた。かつては近郊型住宅地だったこの地も、エコノ・エコ・プランの一環として巨大な緑地帯に変貌しつつある。この緑地帯は商業区域と住宅区域を区切るように伸びている。商業区域として過密、稠密化していく横浜駅-関内の商産業ベルト地帯に対するカウンターとしての役割があった。もともと住宅地であり、そこを立ち退いた住人は緑地帯のすぐ外の社宅街へ移り住んだ。
土地を遊ばせているとの非難もあったが、今の榊には非難するつもりなど毛頭なかった。国道の両わきに高く生い茂る木々が空を隠しているからだ。つまり、上空からも榊の車は見えにくいことになる。榊は車のヘッドライトの左側を消した。上空からは単車のように見えるはずだった。
「NTNに追われていると言ったな」榊は前方を見据えながら言った「あのヘリがそうなのか?」
「そうよ」
「信じられない。TYISPみたいじゃないか」
「TYISPよりヤバイわよ」水口は鼻で笑った「NTNの保安チームよ」
「まさか」
「機会があったら訊いてみたら。湾岸でわたしを追っかけていたのはNTNの公式チームだけど、あのヘリは非公式。NTNに問い合わせても受付は知らないって言うよ」
「じゃ、なぜ知っている」
「つてがあったのよ」
榊もその噂を知らないわけではなかった。ネットを切り裂き、クライアントが求める情報をすくい上げる作業の途中、幾度となく、NTNの非合法活動を示唆するデータに出くわした。しかし、仕事のさなかに吟味する余裕はなく、そうした情報を意識して集めることはなかった。
「保安チームとなると、なにをやったんだ? 電話料金の踏み倒しではないんだろう」
NTNの保安チームはもともと電話料金未払い者、あるいは回線詐欺を摘発するために組織されたと言われている。それがデータ通信規制法等によりNTNの権限強化が認められるに伴い、より強力なものへと変わっていった。
「違うわ。‥‥これよ」
水口はライダースーツのジッパーを降ろした。スーツのしたは下着しかつけていない。水口はスーツの中に手をいれると内ポケットから光磁気ディスクを取りだした。強化アクリルに挟まれた虹色の円盤。四角いプラスチックケースに入って、緑陽マテリアルのロゴが隅にある。そこらで売っている安い既製品。
「そのディスク1枚を盗みだしたからか?」
「まさか。この中身よ」
「何が記録されている。他人のクレジット番号か? 社会登録IDか」
「違うわ。そんなものじゃない。この中にはキーが入っているの」
榊は先をうながす。
「電話交換機のプライムキー。関東全域のね」
「どうやって調べた」
「つてがあるのよ」
交換機のプライムキーとは、電話交換局にある交換機そのものの電話番号のことだ。一般の電話機は回線確立時の暗号処理を行うため仮想電話局の公開暗号キーを持っているが、プライムキーはそれとは違う。電話交換機の保守性を上げるための遠隔診断用として、その番号は用意されている。
もし、水口の話が本当なら、その気になりさえすれば、全国の電話をすべて盗聴することができる。その気になりさえすれば、全交換機をクラッシュさせることができる。その気になりさえすれば、電話番号簿を混乱させることができる。その気になりさえすれば偽の情報で全回線を飽和させることができる。
NTNは一般、専用を問わず、無線回線の6割を、有線回線に至っては9割を制御している。その制御を行うのが交換機であり、その交換機に干渉できるのが、プライムキーだった。
NTNがなりふり構わないのも当然だ。
「何をするつもりだ」
「決めていない」
「金目当てじゃないのか」
「それも考えたけど、本気じゃないわ」
「何を考えている」
「何だと思う」
榊は口をつぐんだ。今となっては、NTNが見失ってくれたことを祈るばかりだ。榊はルームミラーを心持ち動かした。天井に開いた穴が鏡に映る。