ナイトラニング
4.

 前世紀、横浜市の南西部が消費地帯であれば、横浜駅から関内への短い帯状の地帯がその供給地であった。特に横浜駅は関東南部での主要分岐点であったから、その商業活動も盛んだった。地上には屋号を持った総合店舗が軒を連ね、そこを訪れる消費者をあてこんだ小売り店がその周辺や地下に集まった。地下街はまず駅の西側が完成し、かなり時代を下ってから東側にもできた。当時、西側の地下街はダイアモンド地下街、東側はポルタと呼ばれた。現在東西地下街は統合されているが、呼称そのものは依然昔のままだ。
 水口祐子はなんとかバイクを押して、階段を降りた。バイクのエンジンはライトを点けるために動かしたままだった。スタンドを出してバイクを立てると、地下街入り口のシャッターを手動で閉じる。
 水口はバイクにまたがった。警備システムを気にする必要はなかった。警備システムは各店舗の安全にしか関心がないのだ。地下街の警備システムは古い時代に整備されたこともあり、旧式のまま放っておかれ、地上の警備システムと統合されることはなかった。構造的に地下街は複合ビルから独立しているため、さしせまって統合する必要もなかったためだ。彼女はそれを利用したのだった。
 真夜中の地下街は昼間とはまるで別の空間だった。日中は魅力的なディスプレーが並び、客を誘っている店も、夜はシャッターで閉ざされ、迷い込んだ者を拒絶した。
 水口は無愛想な空間を疾走する。
 ダイアモンド地下街は複合ビルの下で二股にわかれる。一本は北東へまっすぐ伸びる道で、北幸橋がその終端となる。もう一本は南へ伸びる道で、その終端は複合ビルの敷地の外にある。その道は延々600メートルほど続き、横浜病院の手前まで続く。水口はその道を走った。TYISPの包囲網が複合ビルに張り付いているのは判っていた。作戦通りだった。彼女は包囲網の外へ出られる。
 心配なのはガスを手際良く補給できるかどうかだった。複合ビルにたどりつくまでヘンな車に追っかけられたせいで予定よりも燃料の減りが早かった。底を尽きかけている。

 数分後、水口は下霜橋のたもとにいた。ガスは結局もたなかった。クラッチを握りしめ、重い車体を全身で押す。TYISPは気が付くだろうか。彼女は考えた。いずれ気づくにしても、いつ気づくのか。明日か。今か。それとも、もう知っているのか。彼女は楽観しないことに決めていた。
 ライダースーツの中が汗で蒸れていた。前髪が額に貼りつく。水口はバイザーを上げ、スーツの前を開けた。乾いた風が心地よい。24時間営業のガススタンドは目の前だった。
 すっかり灯の落ちた街の中でガススタンドの明かりは頼もしく感じられた。誘蛾灯に招きよせられる虫のように、水口はガススタンドへと近づいていく。ここでガスを補給すれば、あとは‥‥。
 水口がガススタンドの敷地に入ると、仮眠を取っていたらしいスタンド員が二人、欠伸をかみ殺しながらでてきた。スタンド員はもう一人いたが、事務室に残っている。万が一に備えての配慮だった。もし、深夜の客が強盗なら、残った者がTYISPに通報するのだ。水口は強盗をするつもりは毛頭なかったが、緊張した。ここで通報されたら、もう逃げようがない。
「ハイクォ。マンタンね」
 スタンド員の一人が手招きする。もう一人のほうは、腰に手をやって、水口とバイクをまじまじと見ていた。
「すげぇ外装だね。こんなの見た事ねぇや。メッキ?」
「コーティング」
「どこのバイク屋?」
「ナイショ」
 水口は舌を出す。スタンドを出し、ようやく一息ついた。天井からホースが降りてくる。
「キーを給水位置にしてください」
 水口を手招きした方のスタンド員がぼそっと言う。水口はキーをガス補給の位置にまわす。タンク中の水素保持材が水素を吸収できるよう電圧を加えるためだ。もう一人のほうは布切れを取り出して、テールカウルを拭こうとする。
「磨かなくていいわ。コートがとれちゃう」
「本当になんスか、これ」
「‥‥まず全面に特殊なペンキを吹き付けて、これまた特殊なバクテリアを吹き付けるの。バクテリアはペンキを食べて、あとに滑らかなアルミ層とポリカーボネイト層が残って、鏡のできあがり」
「嘘でしょ」
「だって、そう聞いたんだもん」
「どこでやってくれるの」
「だから、ナイショ」
「もとのフレームはホンダだよね」
「STX600」
 その時、強い風がスタンドの中に吹いた。
「終わりました」もう一人の方がぼそっと呟く「伝票取ってきますんで、待っ
てて下さい」
 残ったほうは、やたら愛想のいい笑みを浮かべている。
「ねぇ、お客さんどこに住んでいるんです」
「なぁに、ナンパ?」
「ここのスタンドで働いてる連中でツーリングクラブやってんだけどサ、どう?」
「どうって?」
「今度ツーリングに行かない?他にもお客さんが来るんだけど」
「考えとくわ」
 ぼそぼそと喋るスタンド員が事務所から出てくるのが見えた。水口はクレジットカードを出そうと胸ポケットに手をいれようとし‥‥。
 そして、時間が限りなく引き延ばされていった。にやつき笑いのスタンド員の顔半分が拭き取ったように消え、赤い霧が残る。事務室の窓ガラス全てが白く濁り、光を散らしながら砕ける。ぼそぼそ喋るスタンド員は身体をくの字に折り曲げ、宙を飛ぶ。事務室に残ったスタンド員は電話器に手を伸ばしているが、頭が無い。バイクのカウルが砕け、破片が飛ぶ。
 水口は動けなかった。何が起きたのか判らない。身体が硬直する。
「抵抗するな」
 背後からの声に呪縛が解ける。水口はのろのろと振り向く。ほこりが風に舞っていた。
「NTN!」
 水口は歯をくいしばり、声を絞り出す。スタンド前に見覚えのあるシルエットが浮かんでいた。二重反転ローターを持つ市街地用戦闘ヘリ。ヘリは道路と平行に機首を向けてホバリングしている。その機銃は真横に向いて水口を正面に捉えている。
「ハーネスを降ろす。それに身体を固定しろ」
 水口の手がバイクのハンドルへのびる。
「指示に従え。我々はお前の生死に興味などない」
 水口は怒りにふるえる。悔しさに歯がみする。スーツの内ポケットにある硬化アクリルで保護された虹色の円盤について考える。やつらの狙いはそれだ。
 ヘリから浮き輪のようなものが降りてくる。水口をぶら下げて運ぼうというつもりらしかった。機銃は20ミリ。成形炸薬弾を使用しているということを水口は知っている。銃口を水口はのぞき込んでいる。
 水口はあきらめて一歩踏みだした。
 銃口が火を吹く。水口は目を閉じた。彼女の後ろで金属が裂ける音がした。バイクだ。水口は思った。車体が倒れる重たい音がした。
 これで終わり。奴らから逃れる術はない。
 水口の目に涙がにじむ。
 ごめん。仇は討てないよ‥‥。
 ヘリから吹き降ろす風が、まともに顔を打つ。ヘリ特有の音は無く、それが不気味だった。
 ヘルメットを脱ぎ、捨てる。カン高い音を立て、ヘルメットはコンクリの上を転がった。
 水口はタイヤがアスファルトを滑る音を近くに聞いた。

'In Night Running'
Satoshi Saitou
Create : 1992.12.01
Publish: 2010.07.04
Edition: 3
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