榊と水口は3日ぶりに佐藤碧の家を訪ねた。ただし今回の訪問では、リョクヨウ・アートマイスターの御崎が別の車で同行していた。時間的には正午を少しまわった頃で、日差しは明るかったが風が冷たかった。
三人はこの間榊達が訪れたときと同じ部屋に通された。そして同じようにお茶と羊羹が出された。羊羹はこの前来たときよりも心持ち厚切りだった。御崎はそのどちらにも手をつけようとしなかった。
「緑陽の方から今朝方連絡がありました。〈ひまわり〉を見つけられたそうで」
佐藤は御崎を見ながらぎこちなく笑みを浮かべた。水口が明るく言う。
「佐藤さんのご協力がなければ、とても発見はできませんでした」
「わたしが、何か」
「先日いろいろ伺ったお話がヒントになったのですよ」
佐藤は戸惑ったような笑みを顔に貼り付けていた。
「キーワードは」榊が口を開いた。「碧、でした」
「みどり」
「あなたのお名前です」
佐藤はしばらく絶句していた。
「‥‥本当ですか」
「ええ。アーカイブの間でたらいまわしにされたため、本来の検索キーは全て失われていました。〈碧〉が唯一の手がかりとなりました」
おそらく他社で動いていたデータリサーチャーも遅かれ早かれ同じ言葉にたどりついていただろう。しかし、榊達はこの言葉がキーワードであることに早い段階から確信を持つことができた。実を言えば、榊はホテルに入る時、すでに推測がついていたのだった。わざわざむくれさせることもないので水口には黙っていたが。
「今日はこちらの‥‥」そう言って水口は御崎を手で示し、「リョクヨウ・アートマイスター社の許可をもらって、これをお持ちしました」
水口はパッドを卓の上に置いた。ディスプレイ面に触れ、画像データを呼び出す。
「これが〈ひまわり〉ですね」
「ええ」
霞がかった青空を背景に、子供を腕に抱いたと思しき女性の立像が背後から光を浴び、シルエットとなっている。手前には重なり合った半透明のひまわりの花が丘のようになっている。
「これは最終編集版です」御崎が言った。「我々緑陽はこの画像に対し620万ユニットの画像使用契約を結びます」
御崎は印刷された契約書を座卓の上に置いた。
「‥‥それも今朝方伺いました」
榊は微笑んだ。
「言い方がまずかったですね。緑陽は、この画像に対してのみ契約を結んだのです」
「おっしゃる意味がよく分かりません」
「こういう意味です」
水口が待ち構えていたようにパッドを操作する。画像が切り替わった。今度はひまわりも立像も無くなり、青空と霞だけが映る。
「我々はこの画像に対しては権利を要求しません。これは完全に佐藤さんのものです」
御崎が説明した。
「でも、これは‥‥」
佐藤はなぜ水口が嬉しそうにしているのかがわからなかった。水口は佐藤の戸惑いにはお構いなしに説明を始める。
「よく見てください。この背景に使われた素材には、横に筋が入っているようには見えませんか」
佐藤はパッドに表示された画像を見つめた。確かに言われるように、その画像は横に8本の帯に別れていた。
「確かに‥‥でもこれが、何か」
「これが〈歌〉なんです」
「‥‥どういうことでしょうか」
「つまり‥‥」榊が言葉を選びながら説明をはじめた。「サトウ氏は音声のデジタルサンプリングデータをこの画像に変換したのです。ラプラス変換という昔からある手法を使って」
「つまり、それはミュージックファイルを作るようなものだという意味ですか」佐藤は戸惑いながら言った。「‥‥でも、これは絵じゃないですか」
榊は説明する言葉に詰まった。
「音声の強弱をある一点の白さに置き換えたのですよ。実際にはもっと複雑ですが、まぁそんなとこです」
サトウが行ったのは44.1メガヘルツでサンプリングされたデータを周波数成分に分解し、各サンプリング点での周波数成分強度を青白の濃淡に置き換えることだった。一回のサンプリング点で得られる周波数成分強度は一本の〈線〉になる。この作業を全サンプリング点で行うと〈線〉が連続して〈面〉となる。〈線〉と〈線〉の相関は高いため、濃度はなだらかに変化する。ただし、この操作で得られる〈面〉は画面の高さいっぱいにはならない。そこでサトウはこの〈面〉を分割して、帯のようにして画像を埋めたのだった。
「‥‥本当に歌なんですか」
「歌でした。‥‥水口」
水口はパッドを操作した。短くノイズが出た後、パッドから歌声が流れた。
とおいとこからやってきた
やわらかあたたかちいさなあなた
足はそっと草をなで
手はそっと風をなで
‥‥‥‥
「これが?」
「〈くさはらの瞳〉です」
「この歌っている人は」
榊は微笑んだ。
「佐藤比呂、と我々は考えています」
佐藤比呂の娘は榊を凝視した。
歌は続く。
碧のひとみが私を見上げる
まるで私が丘の木立であるかのように
あなたのひとみはわたしを映す
あなたのひとみはくさはらのよう
『碧のひとみが私を見上げる』‥‥このフレーズが持つ意味は後で伝えよう。榊は思った。
「では、これが母の声なのですね」
「もしサンプルがあれば声紋判定できたのですが、残念ながら‥‥」
「いえ」
あなたがわたしを呼んだのね?
あなたがわたしを呼んだのね?
あなたがわたしを呼んだのね?
その明るいひまわりのような顔
歌声に軽い笑い声が踊る。きゃっきゃっという笑い声。
佐藤は両手で口を覆った。
とおいとこからやってきた
やわらかあたたかちいさなあなた
‥‥‥‥
低い遠慮がちな笑い声がかぶさる。
「今のは」
「声紋判定の結果、サトウ氏であると確認できました」
ノイズが入って再生は終わった。
「この画像、及び音声ファイルの排他的所有権はあなたにあります」
佐藤は顔を手で覆っていた。そんな彼女を御崎が笑みを浮かべてじっと見つめていた。
「ありがとうございます」
「それと、これを‥‥」水口が紙片を差し出した。「このテキストが同梱されていました。これが唯一の検索材料でした」
佐藤は呼吸を落ち着けると、差し出された紙片を手に取った。そこに書かれた内容を読んだ彼女の頬に涙が伝った。榊はもちろんそこに何と書いてあるか知っていた。
――碧へ。
ただ、その一言のみ。