佐藤碧はかつて住宅地だった土地の一角に住まいを構えていた。かつて首都近郊のベッドタウンとして開発が進んでいたこの土地は、30年前の震災によって政治経済の中心が周辺へ分散した結果、ベッドタウン化以前の姿に戻りつつあった。特に東京島の分譲開始と共に首都圏一帯の地価が下落したこともあり、住人達はこの土地から次々と流出していった。人気のなくなった集合住宅の群れは、手入れされることもなく、荒れるまま放っておかれていた。建材の劣化進行も著しく、立ち入るのも危険な建屋がいくつもあった。丘の斜面に並ぶその姿は、かつてこの土地を開発させた時代への墓標のようにも見えた。
佐藤が一人で暮らす一戸建ては、そうした集合住宅の群れを遠くから見ることができる場所に建てられていた。周辺にはまだ何世帯か住人が残っていて、彼らの静かな日常の様子が、車の中からもうかがうことができた。
その静けさは佐藤の家の中にも満ちていた。人を不安にさせる静けさではない。その逆だった。ある意味で世界の果てとも言えるこの土地に、こんな安らいだ空気があることが榊には不思議に思えた。
榊は目の前の女性に注意を戻した。
「それで、どういったことをお知りになりたいのでしょうか」
その女性――佐藤碧は言った。資料によれば佐藤は今年で48歳になっていた。バクテリオリフレサー処置を当たり前のように受けるYSPの人々とは違い、彼女の肌は歳相応に張りを失っていたが、それでもかつての容貌を思い描くことは簡単にできた。
榊は馴れない和室での胡座に身じろぎした。水口は隣りで正座していたが、やはりどこか無理があるようだ。
「お父上の、サトウ氏のことについて、お聞かせください」
「父の‥‥何を」
「何でも構いません。どういう方だったのでしょうか」
「あなた方は、父の『ひまわり』のことでお越しになられたのですよね」
「ええ」
佐藤はしばらく黙り込んだ。
「では、そのことから話すのが良さそうですね」
佐藤が眉をひそめたことに榊は気が付いた。
水口が小皿に載せられた黒い塊に小さなピンを刺して持ち上げると一口で頬張った。信楽焼きの湯飲みに手を伸ばす。
「羊羹を気に入られましたか?」
「ええ。初めて食べました」水口は嬉しそうに答えた。「とても甘いんですね。中に入っているのは何ですか」
「胡桃です。残念ながら生成物なんですけど」
「サトウ氏もお好きだったのですか?」
「いえ」水口の問いに、彼女は少し笑みを浮かべた。「父は甘いものがダメでした。辛いものばっかり。あの日にしても、父は形ばかりケーキを食べただけで、結局わたしが全部食べたようなものです。なんだかバカみたいでした。自分で作って自分で食べたわけですから」
「あの日、ですか」
「わたしが『ひまわり』を見た日です。18の誕生日」
なるほど、と榊は頷いた。
「あの日、わたしは人並みにはしゃいでいました。誕生日でしたから。高校で――といっても今の新制高等学校ではなくて、昔の県立の高等学校ですが、そこのお友達からいろいろとささやかな贈り物をもらったりしました。まぁ、たいしたものではなかったのですが、甘いものを奢ってもらったり、渋谷へ一緒に繰り出したりとか、そんなところです。その時は、まだ世の中が変わってしまうことなんて予想だにしませんでしたから、大人に近づくということは‥‥何といったらよいのか‥‥夢の実現に近づくことだったのです。わたしは語学の才があったのか、SBE(商用標準英語)とSEAK(東南アジア・クレオール)を何とか喋れるようになっていたので、外交官とか国連職員とか通訳とか、いろいろ考えていました」
渋谷、外交官、国連。榊はそれら死語となった言葉を反芻した。特別行政区周辺に発生した商業地区の隆盛と東京湾岸地域の冠水によって、山手線沿線にかつての面影はなくなったし、日本という国家が形骸化している現在、外交官は系列企業の海外駐在員以上のものを意味しない。そして国連はグローバルで流動的に変化する情報ネットワーク上に発生した各種調整グループの登場によって半ば解体されている。
「その日、家に帰ってから、わたしは父と一緒にささやかにお祝いをするつもりでした。その頃父は勤めていた会社をとっくに辞めていて、アトリエと称する仕事部屋にこもって売れないCG作品を作っていました。あの頃は最悪の時期でした。今だからこそ言えるのですが、父はメーカーのアプリケーションプログラムの解析とかいったいかがわしい仕事を時々引き受けて生活費を稼いでいたようです。もちろんそれだけでは足りなくて、わたしも仕事に出ていました。遊ぶ金を稼ぐためではありません。生活のためのお金です。あの時代がバラ色だったとは言いませんが、それでも、わたしのような学生は珍しかったはずです」
佐藤はそこで言葉を切り、お茶をすすった。表情が険しくなる。
「父はわたしの誕生日のことをすっかり忘れていました。徹夜で作品作りに没頭していたとかでお昼過ぎまで寝ていたのです。それで、起きたと思ったらジャンクフードを詰め込んで、また作品作り‥‥。わたしはすっかり頭にきました。そうしたことが一度や二度ではなかったのです。わたしのことなんて意識していたのかどうか。今でこそそれが誤解だったということは理解できるのですが、その時はただもう頭にきていて、父をなじりました」
榊は軽く頷くにとどめた。サトウの人となりについて、だいたいのことは広く知られている。彼のような人物を父親に持てば、苦労もするだろう。
「わたしは、こう言ったんです」佐藤はあたりまえのように続けた。「――そんなだから母は死んだのよ、と」
榊はちらりと水口の方を盗み見た。案の定、彼女は気まずく微笑を浮かべていた。彼女はまだ、他人が自分のプライバシーに関してあけすけに話すことに馴れていない。しかし、佐藤碧の母親が、碧が5歳の時に亡くなったことも、サトウと娘の間がしっくりいっていなかったことも周知の事実だ。サトウの人となりについてのインタビューを何度も受けているので、彼女は自分の過去を語ることに馴れている。
榊は佐藤の言葉を待った。
「父はすっかり逆上し、口喧嘩になりました。でも、そのうちどっちもつかれきってしまって落ち着いてきた頃、父が言いました。見せてやる、と」
「それが――」
「ええ、それが『ひまわり』でした。‥‥だと思うのです。父はわたしを仕事部屋に連れて行き、パソコンの前に座らせました」
「済みません」水口が口を挟んだ。「そのパソコンというのは何ですか」
「昔のパッドだよ」榊が説明した。「機能はずっと劣っていたが、パワーはそこそこあった。――失礼。どうぞ続けてください」
「その頃も今のパッドのような携帯型パソコンはあったのですけど、今ほど洗練されたものではありませんでした。でもあれがあるとネット経由で買い物ができたので、とても欲しかったことを覚えています。当時はようやくネット産業向けの法律が整った頃で、小さな個人業者がわんさとあふれて、とてもホットでしたから。でも惨澹たる貧乏暮らしでとても手を出せる物ではありませんでした。唯一のパソコンは父が占有していましたし」
榊は微笑した。その頃の雰囲気はなんとなく覚えていた。水口はまだ生まれていなかっただろう。ただし、当時のコングロマリット数社それぞれが中核となった系列化の進行と、震災による経済変動によって、日本国内の個人業者達はそれから数年後に一掃されることになる。
「ええと、どこまで話しましたっけ。‥‥そう、父はわたしをパソコンの前に座らせると、ネットにアクセスしたのです」
「インターネット?」
「ええ、インターネット・Bレイヤーだと思います。今なんと呼ばれているのかは存じませんが‥‥」
Bレイヤーという呼び名は今はない。榊はネットの歴史を思い返した。
インターネット・Bレイヤーは当時の商業専門の物理回線層で、旧来のネットの上に被さる形で構築された。膨れ上がる通信量をさばくためのものだったが、現在では特別行政区にしか残っていない。極東地域と北米大陸間で始まったネットワークの多層化は、現在の環太平洋ストリーム(RiPS)を生み出したが、それは海外だけの話だ。国内からの利用はNTNが制限している。
榊は佐藤の話に注意を戻した。
「‥‥父はわたしの横から手を伸ばしてキーボードを叩いて、どこかのサーバーにアクセスすると、『ひまわり』をダウンロードしたのです。たぶんプレゼントのつもりだったのでしょう」
「それがどこなのかはわからないわけですね」
水口が訊いた。
「ええ。どこかのデータバンクだろうということぐらいです。契約書は、あの父のことですから、案の定紛失していましたし。先日も紫水の方が見えられた時に気になって探してみたのですけど、さっぱり」
紫水が。榊は一瞬緊張する。
「佐藤さん、あなたのお母上について何かご存知のことはありますか」
佐藤はなぜ、という表情を浮かべる。
「‥‥いいえ、ほとんど。顔も声も知りません。父に母のことを訊くと喧嘩になるので改まって訊ねたこともありませんし。そう、このことで父をどうしても許せないのですが、母が亡くなってから父は母の写真や動画像を処分してしまったんです。それに、これは後で知ってこれも頭にきたのですが、母方の親戚が震災前には御健在だったそうなんです。父はそのことも隠していて。そのことを知った時にはすでに、震災から数年たっていました」
佐藤はそこで言葉を切った。ごめんなさい、と呟く。
「ええと、そうですね、確か『ひまわり』を見たとき、父が妙なことを言った気がします」
榊は次の言葉を聞き逃すまいと緊張した。
「‥‥ええと、そう、絵を見ながら、この絵の中にかあさんの歌があると」
水口が身を乗り出した。
「どんな絵だったのでしょうか」
佐藤は軽く肩をすくめた。
「きれいな絵だったことは覚えています。背景は霧で霞んだような青空で、その霞越しに誰かのシルエットがありました。手前はひまわりのコラージュで埋め尽くされていました。画面全体にはエフェクトがかけられていて、シルエットの人物像に後光がさすように見えました。‥‥正直言って、あまりうまい出来には思えませんでした。今になってみると、あの作品は父がまだ趣味で作り出した頃なのだから、それで当然だったわけですが‥‥。歌のことについても、下手な出来をなんとかごまかすためだったんじゃないかと、思います。その時は、わたしがそのことを言うと、父はまた怒り出しまして、それっきりでした」
「それで、その歌の題名はなんでしょう」
榊は訊いた。
「ええと‥‥ごめんなさい、よく覚えていないのです。確か‥‥『くさはらの目』いえ『くさはらのひとみ』だとおもいました」
聞いたことのないタイトルだな、と榊は思った。
「なるほど。他になにかサトウ氏について‥‥」
「そうですね、他に思い出すことと言えば、昔、水没した直後に銀座に父と行ったことがあるのです。めずらしく機嫌のいい日で。わたしが生まれて間も無い頃、母も一緒にそこに散歩しに行っていたとその時聞かされました。わたしにはちょっと信じられない話でした。わたしは父の性格を良く知っていましたから。あの人と一緒になれたなんて、母もずいぶん寛容的な人だったのだな、とよく思ったものです。もっともそうでなければわたしがこうしているはずもありませんが」佐藤は寂しげな笑みを浮かべた。「ただ、それでも父がわたしのことをどれだけ気に留めていてくれたのか、考え込むことがあります」
佐藤の話はそれからとりとめもなく小一時間ほど続いた。