水口は森宮の顔色を伺いながら早蕨の家を出た。森宮は終始微笑んでいた。
「何か」
「いえ別に」
「‥‥何を思っているか、わかるわ」森宮は微笑んだ。「あなた、不思議に思っているのでしょう。みやかがあんな事言ったのにわたしが微笑んでいるのが」
水口は何と答えてよいか迷った。森宮は構わず続ける。
「未処理の人たちの心理的反応については良く知っているのよ。でも、あなたはわたし達のことを知らない。あなたが抱いている疑問は見当違いのものなんです」
「何も感じなかったのですか」
「何も。彼女の反応は予測通りだったわ。期待していた通りと言って構わないでしょうね」
水口は口を開き、何か言おうとして、やめた。森宮は優しく微笑んだ。
門をくぐる。路地の入り口、水口の車の横に男が二人立っていた。一人はデニムのズボンに革ジャン、もう一人はスラックスにジャケット姿だった。二人ともサングラスをかけ、表情が判らない。二人は水口達を待っていたようだった。
「保安部の人間よ」森宮が囁く。「あなたは心配しなくていいわ」
水口と森宮はゆっくりと歩いた。ジャケットの男が車の前に立ちふさがるように立つ。両手を身体の前で組んだ。
「森宮あやかさん、ですね」
「あなた方が尾行していたのですか?」
「いえ。我々はここの保安担当です」光の加減でサングラスが変色し、鏡になる。その鏡は森宮を写す。「失礼ながら、先ほどの会話は録音させていただきました」
「当然の措置ね。わざわざそのことを言うために?」
「いえ。いずれ正式な通知を送りますが、この場で先に言っておきます。今後、早蕨への接触を固くお断りします。他の退職した養育担当官についても同様です。理由は述べれません」
「杞憂ね」
「なら結構です。‥‥言うまでも無いですが、これは警告として受け取ってください」
「わたし達に圧力をかけられるとお思いですか」
男達は答えなかった。ジャケットの男は踵を返し、革ジャンの男共々路地から出て行く。水口は森宮を見た。
「水口さん、このことは他言無用ということにしてください」
「‥‥わたしには守秘義務というものがあります」水口は憤然と言い返した。「しかし、一体何が」
「わたしは何もかも知っているわけではありません。ただ、わたし達はある傾向を上層部の中に見出しています。それはもちろんあなたに話すことはできません。当然のことでしょう」
「済みません」
二人は車に戻った。水口はエンジンをかける。ギアをバックにいれ‥‥そこで手を止めた。
「森宮さん。これがただの詮索であるのは良く承知しています。でも、その指輪は‥‥一体何なんです」
「安物のただの指輪、と早蕨さんは言っていたわ。本当にただの指輪よ。養育所時代、早蕨さんというとこの指輪を連想するわ。よほど印象が強かったらしいわね。未だにその連想は消えてなかったのよ」
まるで他人事のように森宮は答えた。
「未だに‥‥」
そう呟いた後、森身は急に身体を屈めると両手で顔を覆った。
「森宮さん」
「何でもないわ」くぐもった声が返る。森宮は引き剥がすように顔をあげた。「何でもない」
そして、シートの中で身体を伸ばすと、シートベルトを締めた。顔にはいつもの笑みが戻っている。
「YSPに帰りましょう」
「ええ」
水口は薄気味悪いものを覚えながらアクセルを踏んだ。森宮は静かな微笑みを浮かべている。しかし水口はその笑みが仮面でしかないことを知っていた。その笑みの下に隠れた感情に気づいていた。
「たぶん、それは錯覚ですよ」
森宮が不意に言った。水口のハンドルを握る手が動揺する。
「わたしに同情する必要はありません。それは見当違いです」
水口は返す言葉が見つからなかった。
本牧の丘を車は登り、白い壁、白い階段が作る静かな街並みの中を走る。YSPSからの交通情報を受けながら水口は車を走らせる。バックミラーには横浜港が映る。冬の空は白々と青い。
「ここでいいわ」森宮が言った。「後は歩きます」
水口は言われるままに車を停めた。
「ありがとう。費用は最初にうかがった通り?」
「プラス、諸経費。だいたいが車の燃料費です」
「そうだったわね。部屋の方に請求をまわして」
森宮はドアを開けた。スタイルの良い脚を表に降ろす。その時、ふと思い付いたように水口の方を振り向いた。
「榊さんを、と頼んであなたが来た時、正直言って期待していなかったんですよ」
水口は吹き出した。
「でも、あなたも良く仕事をご存知のようね」
「まだまだ駆け出しです」
「これから榊さんのところに戻るの」
「SILですから」
「そう」
森宮は微笑んだ。本当の笑顔なのだろうか。水口は一瞬思ったが、偽りの笑顔には思えなかった。
「何かあったら、またお願いするかもしれません」
「よろしくお願いします」
「では」
森宮は車を出ていった。
「榊に電話を」
車載コンピューターが車に内臓された電話を使ってアクセスする。
『‥‥榊です』
「わたしよ」
『なんだ?パッドを使ってないな。声が変だ。車のデバイスを使ってるな? クラスターの準備なら少し待ってろ』
「違うわよ。終わったわ。無事にね」
『なんだ。つまらん』
「悪かったわね。今から帰るわ」
『‥‥あ、済まん』
「何が」
『調べ物に時間とられて、部屋が散らかったままだ』
「‥‥あぁら、そおぉう」
水口はアクセスを切った。車を走らそうとして前方に目をやると、森宮が一人歩く後ろ姿が見えた。彼女はゆるやかな坂道を登り、空を背景にシルエットになっていた。
水口はハンドルを右へいっぱいに切るとアクセルを踏んだ。車はほとんどその場でUターンする。Uターンする必要は無かった。しかし水口には彼女を追い抜くのがためらわれた。