『‥‥そうだな、とりあえずその名前で緑陽の人事記録を叩いてみろ』通信線の向こうで榊が言った。『なんか出るかもしれん』
「それで、もし見つからなかったら」
『その時は‥‥メールシステムをあたると面白いかもしれん。さもなきゃクライアントの思い出話につきあってやれ。そこに手がかりがあるだろう。たぶんな。とにかく動け。はじめる前から〈もし〉を言ってもはじまらん』
「そうね」
『地道にやれ。がんばれよ。詰まったら連絡しろ。ヒントぐらいは出せるだろう』
通信は切れた。水口はくすりと笑った。「がんばれよ」だなんて珍しい。
水口は細長い小部屋にいた。森宮が提供した部屋だった。物置としてあつらえられた部屋らしく、部屋には様々な物が置かれていた。直線の構成によってデザインされたような人の背丈ほどあるスタンド、ただ白いだけのソファ、灰色のパネルヒーター、小さな丸テーブル。おそらく一時的にしまわれたであろう家具が整然と詰め込まれていた。部屋の一方の壁は全面がクローゼットになっている。先ほど森宮に連れられてきた時、クローゼットが開いていたのだが、その時見た限りでは、森宮はそう多くの服を持ってはいなかった。水口の方が多いだろう。デザイン的には流石に流行の先端を行っているが、フォーマルなものばかりなのが水口には気になった。カジュアルな服は少ないように見受けられた。
水口はパッドを起動させた。本当はクラスター構成を取るためもっと多くのパッドを持ってきたかったのだが、榊に止められた。「慣れていないから」と言うのがその理由だった。水口は憤慨したが、必要な場合は榊の方で組んだクラスターをリモートで使用すれば良いと指摘され、納得したのだった。「その方がスマートに見える」榊はそう言った。
パッドの表示面に見慣れた起動タイトルが浮かぶ。
森宮が入ってきた。盆を手にしている。
「お茶をどうぞ」
「済みません」
森宮は湯飲みをテーブルに置くと、急須から緑茶を注いだ。暖かい香りが水口にも届いた。
「宇治です」
本物ですか?と聞くのは野暮だろう。ここはYSP。全てが本物に決まっている。
「こんな部屋しか御用意できなくて済みません」
「いえ。ご無理を申して恐縮しているのはこちらの方です」
森宮は微笑みながら小首を傾けた。
「構わないでしょうか。なぜ?」
なぜ森宮の部屋を使うのかということなのだろうと水口は察した。半ばはったりで説明しようと水口は思った。榊がよく使う手だ。
「わたしはこれから気密度の高いデータタンクにアプローチするつもりです。その中には企業人事部への問い合わせも含まれます。アイデンティファイ・クリアランスの点で森宮様の宅内交換機を経由させた方が手間がかからないのです」
「うちの人事に何か問い合わせるのですか」
「過去のデータを洗うつもりです。もっともアプローチするデータタンクはそれだけではありませんが、いずれにしろ、私の身分保証よりは森宮様の方が」
「判りました」森宮は頷いた。「それと、森宮〈様〉はよして下さい。わたしはただの社員です」
「済みません。森宮さん」
森宮は微笑んだ。
「ここで見ていて構わないかしら」
水口は暫くためらった。本音を言えば席を外していてくれた方がいいのだが。
「ええ、構いません」そしてしばらく考えてから、「森宮さん、もし構わないようでしたら勤務部署を教えていただけませんか」
「私のオフィス経由でアクセスするのですか」
「ええ」水口は認めた。「ただし合法的な手段です。ご迷惑はおかけしません」
「その点について疑ってはおりません」
森宮は柔らかく言った。皮肉だろうか、と水口は思った。
「‥‥しかし」
「オフィスへのアクセスは森宮さんがなさって下さい」
「そういうことでしたら」
水口はパッドを森宮の前に滑らせた。
「しばらく触ってなかったのだけど‥‥」
そう言いながらも、森宮は慣れた手つきでパッドを操作した。
「どうぞ」
水口はパッドを受け取ると、人事に森宮みやかの部署を問い合わせた。緑陽人事サービスセンタがそのクエリ(問い合わせ)を機械的に処理し、彼女がすでに退職していることを通知してきた。
その通知を見て、森宮は怪訝そうな笑みを浮かべながら水口を見た。水口も微笑んだ。
「社には彼女の情報がまだ残っているようですね」
「でも、住所記録ではありませんよ」
「こういう手があるんですよ」
水口は森宮みやか宛てのメールを私信レベルに設定して発信した。このメールは当然到達するはずはない。メールサーバーは宛先の人間が現在存在しないことを通知し、併せて新しいアドレスを通知してきた。
――関東省神奈川県藤沢市大庭‥‥
水口はほっとした。13年前の記録が本当に残っているかどうか不安だったのだ。森宮と顔を見合す。森宮はくすりと笑った。
「なるほどね。気がつきませんでした。わたしの社のメールシステムなのに。私信に設定するのが要なんですね。社用だとただ返送してくるか、抹消してしまう」
水口も頬がゆるむのを押えられなかった。
「あっけなかったですね。でも、実際に行って確認を取らないことには何とも言えませんよ」
「実際に、ですか」
「特別行政区外の住民登録情報は確度が悪いのですよ。国家警察にもそう言われたのですよね。仮にみやかさんが再就職されていて、その就職先が判ればはっきりするのですが」
「困ったものね」さらりと言う。「では、これから?」
「ええ。これから。ご一緒しますか」
「そうしようかしら」