本牧の小高い丘の上で水口は車を降りた。真白い壁に挟まれた通りの先には冬の海が見えていた。海は重たいコバルトブルーの色をしていた。水口が車のドアを閉めると、磨き上げられた黒い塗装面に真紅のタイトスカートとジャケットが映った。水口はリムレスのドライビングサングラスをはずしてたたみ、胸ポケットに差し込む。
小脇にはさんだパッドを右手に持ち直し、水口は白い壁から伸びている階段へと歩いた。海から吹く風が通りを吹きぬける。髪が広がった。
「ウーマン・イン・レッドだな」
根岸台のフラットを出るとき、水口は榊からそう言われた。
「何よそれ」
「赤いドレスの女。そういうクラシックポップスがあるんだ」
「何だか知らないけど馬鹿にしてるでしょ。――ねぇ、本当にわたしに任せてもらっていいの?」
榊は軽く肩をすくめた。
「大丈夫だと思うよ。手におえないようなら線で俺を呼べ。手が空いていたらバックアップしてやる」
「とか言ってさぼりたいんでしょ」
榊は笑って答えなかった。
「ま、先方にはいい印象与えるようにな」
「そうするわ。部屋、片づけといてね」
榊は肩をすくめてみせた。
水口は緑陽が管理する独身社員フラットの一室でソファの端に腰を降ろしていた。ソファには洗い立てのシーツが被せられ、水口の下で皺になっていた。高い天井の部屋だった。インテリアはシンプルで、ソファと黒いロウテーブルの他には、壁際のサイドテーブルがあるだけ。窓の向こうには広くて白一色のテラスが見えていた。ロウテーブルは厚手の合板を使った簡素なもので、何の飾りもなかった。
「お待たせしました」
30前後の女性が部屋に入ってきた。ティーカップとポットを載せた盆を手にしている。
「お構いなく。森宮さん。勤務中ですから」
森宮は微笑んだ。
「ずいぶん真面目なのですね」
そう言いながら、カップを水口の前に置き、ポットから紅茶を注いだ。
「どうぞ」
「どうも」
答えてしまってから水口は顔が赤くなるのを感じた。きまり悪く森宮の顔を伺う。彼女は相変らず微笑んでいた。
「冷めないうちにお飲みになってください」
水口は内心ため息をつきながらティーカップに手を伸ばした。森宮は向かいのソファに腰を降ろし脚を揃えた。ソーサーを左手に、カップを右手に持ち、上品に紅茶を飲んだ。
「ダージリン、ですか?」水口はとりあえず言う。「いい香りがしますね」
「お気に召して良かったわ。でも、ダージリンではないんです。ブレンドしてあります」
「そうでしたか」
水口はいつ仕事の話を切り出したら良いのか迷っていた。とりあえず、紅茶を飲み干して、カップをソーサーに戻した。カチャリと音がした。
「それで、ご依頼のお話なのですが‥‥」
森宮のカップを持つ手が止まった。微笑みは消えない。
「指輪を探し出して欲しいのです」
彼女は言った。
「指輪ですか」
「ええ、指輪です」
森宮は相変らず微笑んでいた。
彼女は穏やかな笑みを漂わせて話した。
「‥‥その指輪はもともと私の生育担当者のものでした」
水口は頷いた。生育担当者とは、要するに「育ての親」だ。
「私たちは14歳まで育成担当に預けられたのですが、その最後の日に指輪をいただいたのです。担当の私物でした‥‥失礼」
森宮は服の襟からインカムを引き出した。電話を受けたらしい。小声で受け答えする声が、水口の耳に途切れ途切れに入る。
「‥‥それは承知しておりますが‥‥今日のスケジューリングは事前申請しておりますし‥‥はい‥‥遅延分は必ず‥‥」
しばらくして電話のやりとりは終わった。
「お忙しいようですね」
「ええ、なかなか自由な時間が取れなくて」
森宮はそう言って微笑んだ。話が途切れる。水口はお茶を一口飲んだ。
「‥‥それで、その指輪を紛失されたのですか?それとも盗難ですか?警察の方へ届けは?」
「いいえ。その指輪は私の妹の手元にあるはずです」
水口は軽く眉をひそめた。
「どういう事なのか、お話がわからないのですが」
「妹は13年前に退職しました。もちろん他系列への再就職もしておりません。つまり、いずれのSPにも住んでいないのです」
「国家警察の方へは」
「非SPでは戸籍が混乱しているそうで‥‥力にはなれないと言われました」
「今も妹さんが指輪をお持ちだとお考えですか」
「ええ」森宮は即座に答えた。「あれが生きているのならきっと持っているでしょう」
「それともう一つ、その指輪は妹さんのものなのですか?そしてあなたはそれを取り戻したいと考えているのですか」
森宮は微笑んだ。
「いいえ。わたしは〈探してほしい〉と申し上げたはずです」
「‥‥失礼しました。つまり、妹さんを探せば良いわけですね」
「そうですね」森宮は柔らかく笑った。「でも私が探しているのは妹ではなく指輪なんです」
水口は戸惑いを覚えながらも、そうですか、とだけ答えた。
「それで、妹さんのお名前は」
「みやか、といいました。森宮みやか、です」