――フェルマータ家の政策は代々に渡って啓蒙主義で貫かれていたが、当時の支配階級の例に漏れず、本質的には専制であり、「臣民」の無制限な自由を認めるものではなかった。臣民が手にする諸権利はフェルマータ家の利権を守るために制限されていたのである。
フェルマータ家代々の当主が、当時にしては珍しく臣民の為に心を砕いていたことは、これまで何人もの歴史家が明らかにしてきたことである。しかし、その行為が専制という体制に対して本質的に自己矛盾を来たしていることも明らかであり、その当然の帰結として、次第に社会的な歪を蓄積していくこととなった。
この蓄積された歪は、最初おそらくは歴史に記されない程度の散発的な暴力行為を生み出していたものと思われる。記録上確認できる最初の事件は、ケーネス・デ・カ・タイロスが指摘するように「アダゾの窓外放擲事件」(『トリル物語』1940)だろう。
当時トランサルト盆地の西側入口として通商活動の要となっていたアダゾ市では、より一層の自由な通商活動のために関税(河川税、通行税)の撤廃、あるいは大幅な減税を求める機運が高まっていた。しかし、4月会議のメンバーでもある市長はこれを認めず、あまつさえ市長の方針に添わない商人達を非合法化しようとした。これに反対した勢力が半ば暴徒化し、市長邸を襲撃、居合わせた市運営会議のメンバーのうち数名を窓から「放り出した」。
この騒動を知ったアルト=フェルマータ女王は激怒し、即座にトリル教会の私兵組織であるトリラー剣士団に暴徒鎮圧を依頼する。依頼を受けたトリラー剣士団の精鋭は女王付の近衛連隊の支援を受けたちまちのうちに暴徒達を鎮圧した。しかし、この事件を契機としてアダゾ市では反フェルマータ、反教会という「二重の反体制感情」(ケーネス)が醸成されることになる。
この事件から数年してアダゾ市から「マヒナ党」が生まれることになるのは、このことと無関係ではない――。
『トリル――近代国家の曙』(ホイス・ダイス、1973)