時差
5.

 夕暮れに気付く時刻が早まっている。わたしは時刻を脚で知る。ペダルの重さが時計代わりだ。わたしは昼間の事務室待機を挟んで一日5時間走る。この仕事を始めたときは3時間がせいぜいだった。同僚たちの大半はミニスクーターを使う。インホイールモーターを積んで、ペダルの無い自転車のような外観をしている。スマートだが、わたしは好かない。スタイリングの問題ではない。わたしは移動する感覚が好きなのだ。ペダルを踏むという行為が移動に置き換わる、その感覚。街の距離が自分の運動量に変換される、その感覚が好きなのだ。
 わたしは関内の事務所に戻るところだった。サングラスには叔母のトレースが表示されている。叔母は材木座海岸から北上していた。たぶん鎌倉駅に戻るつもりだろう。
『柊』
 コールサインではなく、名前で呼ばれ、わたしは心臓がとまりそうになった。柏原だった。
「驚かせないで」
『そろそろわたしのシフト終わるから、トレース切るわ』
「了解。ありがとね」
『必ず返してよ』
「解ってるわ」
 サングラスの表示から叔母のトレース点が消失した。わたしはトレース表示そのものを終わらせる。事務所近くの交差点で自転車を止めた。リストバンドのコントローラーを操作して、叔母にもたせたわたしのパッドを呼び出す。十数秒待たされた。
『どなた?』
「ソフィー、わたしよ」
『まぁ、ホリイ。びっくりさせないで』
「そっちはどう? 迷ったりしなかった?」
『平気よ。それにしてもちっちゃい街なのに入り組んでいるのね』
「ちっちゃいから入り組んだのよ。わたし、これから事務所によって、それから帰るの。叔母さんはまだそっちにいるの?」
『わたしもそろそろ帰るわ』
「面白かった?」
『まぁまぁね。お寺をいっぱい見たわ』
 あまり楽しそうな口調ではなかった。確かにモダンな近郊住宅地と古色蒼然な寺社仏閣が混在している土地だから、テーマパーク的な楽しみ方はできないだろう。
「それじゃ、夕食を準備して待ってるから」
『ううん、それもいいけど、おいしそうなレストランを見つけたの。こっちまで来ない?』
「これから?」
『わたしが払うから』
「カードで?」
『アメックスぐらい使えるんでしょ』
「たぶんね」
 わたしはうんざりしていた。一日中自転車で走り回ってくたくただった。それに、鎌倉はやはり遠い。
『いいでしょ? せっかくなんだし』
「そうね」わたしは同意した。「でも、これから事務所寄って、帰って着替えてからだから、そっちに着くのはだいぶ先よ」
『土産物屋を漁ってるから平気よ』
「解ったわ。それじゃまた後で」
 わたしはため息をついた。

 鎌倉駅を出た時、日没はとうに過ぎていた。風が肌寒い。夏はもう終わっている。夜空にはぼんやりと白い雲が幾つか浮かんでいた。
 駅前のバスターミナルは横浜圏からの帰宅者であふれていた。わたしは彼らに紛れてターミナルから大路へ。叔母を呼び出す。
「ソフィー? どこにいるの」
『遅かったわね。あなたを見ているわよ』
 驚いてわたしは周りを見回す。観光客は殆ど姿を消していて、今歩いているのは地元の住人達ばかりだった。この中にいて、白人で大柄の叔母はいやでも目立つはずだが、姿は見えなかった。どこかからか隠れて窺っているとしか思えない。
「どこにいるの?」
『あなたの格好を見て、ちょっと安心した。そういうシックな服も持ってるのね。ちょっと流行から遅れてる感じはするけど』
「大きなお世話よ。ねぇ、どこにいるのよ。いい加減にしないと、わたし、帰るわ。一日中走り回って疲れているんだから」
 叔母は笑った。
『昔、よくこういう想像をしていたの。あなたが小さくて、あちこち自転車で走り回っていた頃よ。――今ホリィはどこかしら、グレンロードをまっすぐ走って、陸橋を越えて、今はハイランドアヴェニューかしら。それとももうスコフィールドまで行って、ローズデール公園にいるのかしらって。ある日、あなたの帰りが遅くなってマルゴが大騒ぎした時、わたしは、あなたがきっとウィンストン・チャーチル公園にいるって思ったの。マルゴはあなたがそんな遠くまでは行かないって言い張ったけど、ケンが車を借りて探しに行った。そしたら、スパディナ通りの脇で、リムのひしゃげた自転車を前にして、座り込んでるあなたを見つけた。覚えてる?』
「そんなこと、あったかしら」
『あったのよ。後でマルゴに、知ってたらなんで止めなかったのと言われたけど、わたしはただ、あなたがその日はきっとこう走るだろうって想像しただけ。まるで空から見下ろしているように、あなたの走る姿が思い浮かんだの。たまたまそれが当たって、わたしも驚いたけど』
「ねえ、それはいいから、どこにいるの」
『今も空から見下ろしているわ』
 わたしは振り返った。大路は道沿いに低層の雑居ビルが並んでいる。わたしが見上げると、そこは喫茶店で、その窓から見知った顔がわたしを見下ろしていた。
「見つけた」
『見つかった。‥‥待ってて、今、下に行くから』

 叔母が見つけた店というのは、駅から真っ直ぐ小町通りに入り、そこから少し北へ上ったところにあった。この辺りは古くからの民家が密集していて、静かな佇まいの中でひっそりと沈んだように店を開いていた。店の屋号が木目鮮やかな板に黒々と書かれている。毛筆でアーティスティックに書かれた漢字はまだ苦手だったが、なんとか読むことができた。――よしむら。わたしは冗談でなく震え上がった。「超」こそつかないものの、そこは有名な高級店だった。
「わたし、この店知ってる。高いのよ。ここ」
「平気よ」叔母は平然と言う。「だって、マルゴのカードなんだもの」
「どうなっても、わたし知らない」
 普段のわたしはどんな格好でどんな場所にいようとあまり気にしない方だ。桂にもよく言われた。わたしにはTPOが欠落していると。それでもさすがに今日ばかりは形ばかりにスーツを買っておいて良かったと思った。わたしにもまだその程度の社会性は残っていたらしい。
 期待に違わず店内は静かだった。わたしたちは入ってすぐに靴を脱がされ、木の香りが強い廊下を奥まで通された。壁は白塗りで、そこに青い竹が何本も埋め込まれている。頭上には竹の細い枝が無数に交差し、風に揺れていた。廊下にはその揺れる枝の影が落ちている。そのインテリアはわたしたちが通された部屋も同じだった。わたしは気に入った。しゃれている。
 わたしは座布団の上に横座りした。正座をするものだということはもちろん知っていた。でもわたしは正座ができない。それは叔母も同様だ。別に気にすることも無い。店員は何かしら思うかもしれないが、再びここに来る機会があるとも思えない。どう思われようと知ったことか。わたしは客なんだ。
 わたしたちを部屋に案内した着物姿のウェイトレスが湯のみを並べ、緑茶を注いだ。
「このメニュー、なんて書いてあるの?」
 叔母がメニューを開いて見せた。日本語で書いてあるきりだ。わたしが日本語を使ったので、別に構わないと思われたのだろうか。確かに読めるが、それがどんな料理なのか、わたしには見当もつかない。
「叔母さん、ロウフィッシュは大丈夫だっけ」
「ケンも一緒に暮らしていたとき、彼がいろいろ作ってくれたから、大丈夫よ。ナットーだって平気」
 わたしは駄目だ。
「たぶん納豆は出ないと思う。こういう店ってよく解らないけど。魚食べる?」
「煮ても焼いても生でも平気。ね、納豆と烏賊の塩辛、あったら頼んで。納豆にはオグラを混ぜてもらえるかしら」
 わたしは父を恨む。そんなメニューあるわけない。やがて割烹着姿のウェイターがやってきて、部屋の上がり口で正座した。
「何にいたしましょう」
「ごめんなさい。メニューを読んでもぴんとこなくて。おいしいお魚、あるかしら」
「はい。真鶴であがりました、活きのいいイナダがございます。お刺身にいたしましょう」
「暖かいお料理だと嬉しいのだけど」
「でしたら、煮物はイナダのアラで味噌鍋など。ブリほど脂がのっておりませんが、あっさりしてよろしいかと」
「それでお願い」
「それと、身の部分を皮焼きにいたしましょう」
 叔母が小声で「サケ」と言った。わたしは混乱したが、要するに「日本酒」のことだと気が付いた。
「お酒もいただけるかしら」
「ワインでございますか」
「いいえ。日本酒で」
「銘柄はなにかご希望が」
 解るわけがない。
「お任せします」
「お通しと前菜はどういたしましょうか」
 わたしは内心悲鳴をあげていた。いったいどれくらいオーダーすれば良いのだろう。フレンチだったらまだ見当もつくのに。
「彼女は今日初めての来日なの。鎌倉がとても気に入ったって。だから、できればこの時期の鎌倉らしいものを頂ければと思っているのだけど」
 ウェイターはにっこり微笑んだ。
「旬のものを、ということですね。解りました。お任せください」
 障子戸が静かに閉められる。青い竹の葉が漉き込まれた和紙に竹枝の影が揺れていた。わたしは安堵のため息をつく。
「慣れてるのね」
 叔母が言った。
「とんでもない。わたし、こういうお店は初めてよ。全然解らなくて」
「そうなの。日本語解らないから気が付かなかった。ずいぶん慣れてる様子だから、しょっちゅうこういう所に来ているのかと思った」
「まさか」
「いいのよ。ちゃんとお料理が出てくれば。あ、これは返しておくわね」
 そう言って、わたしのパッドをテーブルの上に滑らせた。
「時々、わたしの様子を探っていたでしょう」
 わたしは叔母の顔を見つめた。
「なんか、勝手に動いた時があったのよ。そうなの?」
「そんな暇ないわよ」
「別にいいの。どっちでも。いずれ監視装置をインプラントすることになるのだし」
「どういういこと?」
「こないだ珍しく検診を受けたのよ。そしたらひっかかったわ。狭心症のリスク有り。だって。食生活に気をつけて、適度に運動しなさい、って」
「それで」
「で、こうも言われたんだけど、今、アメリカの保険会社とカナダの医療産業コンソーシアムとの提携で、新しい健康監視プログラムが準備中だ。それは超小型の血液モニタを埋め込んで、監視会社に常時送信し、健康状態に異常の兆候が見えたら本人と医療機関に連絡がいく。万が一何の兆候もつかめず、突発的に倒れても、即座に救急隊を呼んでくれるって」
 今のわたしが携わっている〈ナイチンゲール〉プログラムと似ている。ただ、モニタリングの対象がよりクライアントの内部に踏み込んだ点が違う。わたしたちが使うモニタ装置は非侵襲型――つまり、クライアントを傷つけない。心音モニタや血圧・脈拍計を有するモデルもあるが、基本的には身体の外部にある。だが、叔母が聞かされた新しいプログラムでは、センサはクライアントの体内に入る。
「何を食べたとか、飲んだとか、どういう薬を飲んだとか、すぐに解ってしまうって。ちょっとしたプライバシーの侵害よね」
「それで、どうするの?」
「迷ってるわ」叔母はそっと言った。「どこかで一人きりになったとき倒れたらどうしよう、とか思うとね。センサをインプラントすればどこにいようと安心できる。異常の早期発見もできるし――別に心疾患に限らなくて、ウィルスも有名なものなら見つけられるって。あとはコレステロールとか、血糖値とかね。そういうメリットもある。でも、自分の身体のことが筒抜けになるっていうのも、なんだか」
 ようやくわたしには全体が見えてきた。
「ママは賛成したんでしょう」
「ええ。マルゴは大賛成したわ。いつも検診を受けているようなものだから。でも、わたしの身体であって、彼女の身体じゃないのよね」
「いつまでに決めないといけないの?」
「プログラムそのものは半年先に開始予定だから、それまでに、とは言われたわ」
「だいぶ時間はあるのね」
「割とね」
 わたしは叔母に何もいえない。叔母には長生きしてもらいたい。でも、それが叔母のプライバシーとの交換だとしたら。それに結局、わたしが何を言おうと、それは他人事でしかない。これは叔母の身体のことなのだ。叔母の身体は叔母だけのものだ。
「まだ時間があるのなら、急ぐこともないじゃない」わたしは無理矢理笑顔を浮かべた。「なにしろ今はお腹がぺこぺこで、その方が重大よ」
「同感ね」
 それきり会話が途絶えた。しばらくして小鉢が運び込まれ、ようやく食事を始めることができた。料理はとても美味しかった。お酒もおいしかった。舌は楽しんだ。しかし、後味に何か残るものがあるのは、仕方の無いことだった。
「明後日、帰るわ」
 食後の甘い菓子を食べながら、叔母は呟いた。わたしは頷くだけだった。

'Time difference'
Satoshi Saitou
Create : 2001.03.04
Publish: 2010.07.10
Edition: 2
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