時差
2.

 何かの機会に叔母にはオフシフトの日程を伝えてあったはずだが、突然叔母がメールしてきたカナディアン・エアーの便はものの見事にその日程からずれていた。わたしは頭に血を昇らせながら、そして厭味を言われながら同僚とシフトを調整し、羽田へ向かった。
 晴れているが雲は多い日だった。会社の裏手にあるレンタカー屋で借りた車は高速湾岸線を誘導されて、予定通り羽田の第2ターミナルに入った。到着ロビーは行き来する人々で混み合っている。わたしは色の薄くなったサングラスで空港が提供する到着時間情報を確認した。カナディアン・エアーは到着予定時刻から17分遅れる。不思議な感じがする。17分遅れても、乗客にとっては未来時刻ということになる。それとも、17分ほど未来に届かなかったことになるのだろうか。――無論、お遊びだ。単なる時差なのだから。時刻の一致は同時を意味しない。ただ、それでもサーカディアンリズムにとっては、やっぱり未来に到着したことになるのではないだろうか。肉体にとってあるべき時間が消えてしまう。いつもの癖で周囲を行き交う人々、一人一人の顔を注視しながらそんなことをぼんやりと考えていた。
 だから、叔母がゲートを出てきたことにも気づかなかった。
「ハイ。ホリィ」
 聞き慣れた訛りのある英語。叔母は濃紺のブラウスにジーパンといういでたちで、つば広の帽子を被っていた。帽子の縁からベールが下がっている。その後をトランクが追っていた。
「ハイ、ソフィー」
 私は答える。ホリィ、はわたしの日本語名「葵」の英語読み、ホリホックに由来する。父方の姓である柊も英語読みではホリーであり、もう、それ以外呼ばれようがなかった。カナダでは頼まなくてもそう呼ばれた。親たちはわたしのネーミングで遊んでいたのではないかと思う。
「ホリィ、元気そうじゃない」
 叔母はわたしを抱きしめた。今のわたしは父より頭一つ大きく、母とは同じくらい。しかし、叔母はわたしより頭一つ大きい。叔母に抱きすくめられると、わたしは今でも子供時代の感覚が甦る。おかしなものだ。父母と一緒だと、わたしは大人になったと思う。背丈で決まるものでもないのに。それでも見上げた叔母の顔に、細かい皺や皮膚のたるみを見て取ると、自分達が老けたことを実感せずにはいられない。そう、誰だって歳は取る。誰だって老いて行く。いずれ皆死ぬ。消えていく。
「どうしたの」
「何でもないわ。車を待たせてあるの。こっちよ」
「こっちはなんだか、湿っぽいわね」
「すぐに慣れるわ。今はまだいいのよ。これでも。夏の間はサウナにいるみたいだったんだから」
「それでそんなに痩せちゃったのかい。ちっちゃい頃のホリィは丸々していたけどね」
「やめてよ。去年のクリスマスに会ったでしょう」
 到着ロビーを出ると、借りたレンタカーがパーキングからターミナルに戻ってきた。
「いい車じゃない」
「レンタカーよ」

 完全誘導される車を使うのは、電車に乗るのと変わらない。片側三車線の湾岸高速を誘導自動車が連なって走る。叔母は窓を降ろして風を受けていた。海側を眺めている。木々の間に高層マンションが立ち並んでいた。昔はマンションの変わりに工業コンビナートが建っていたという。にわかには信じがたい。マンションとマンションの間から海が見えていた。表面上落ち着いてはいるが、叔母がはしゃいでいることがわたしには解った。彼女にとって日本は初めてだ。何もかもが珍しいのだろう。
 わたしはサングラス越しに叔母を見つめた。わたしは彼女の産道を通ってこの世に生まれた。しかしわたしは彼女にちっとも似ていない。今でこそ多少くすんではいるが、叔母はすてきな金髪の持ち主だ。わたしの髪は黒くてごわごわしている。もちろん似ていなくて当然だ。私の遺伝子に叔母由来のものはない。しかし、母と叔母と、それぞれの距離感は微妙に違い、どちらかと言えば叔母の方が近い感じがする。ローティーンだった頃、風邪引きのような恋の相談を持ちかけたのも叔母に対してだった。母に対してはどこかかしこまってしまい、あまりあけすけな話をした覚えが無い。
 叔母がわたしを振り返った。
「ソラリスとはずいぶん違うのね」
「何?」
 わたしは面喰った。
「タルコフスキーの映画よ。知らない?」
「知らない」
「コーカクとも違うし」
「それも映画?」
「両方古典よ。子供の頃良く見たわ。そういうのに興味ないの?」
「あんまり」
「本場なのに」
 何の本場なのか尋ねない方が良さそうだった。叔母の趣味は偏っている。
「それにしても、そのサングラスはなんなの?」
「仕事道具なの。癖よ。こうしておけば忘れずに済むし」
「まるで悪徳警官みたい」
 わたしは笑った。ルームミラーに自分の顔を映す。ファッションよりも機能を優先させたデザインだ。威嚇的に見えなくもない。わたしはサングラスをはずすとつるを折りたたみ、ブラウスのネックに引っ掛けた。
「そんなところに引っ掛けてると、落とすわよ」
 叔母はわたしの胸元に手を伸ばすとサングラスを取り上げ、わたしのブラウスの胸ポケットに押し込もうとした。
「ポケットの形が崩れるわ」
「そんなに安いブラウスなの?」
「もう」
 わたしは胸ポケットからサングラスを抜いて、腰のポーチにしまった。
「なんだ、ちゃんとあるじゃない。でも、そのブラウスとパンツの色には合ってないわね。デザインもなんだか」
「承知してるわ。でも、このポーチも支給品なの。そこまで我儘は言えないでしょう」
「プライベートなんだから、仕事道具は置いてくればいいのに」
「そうもいかない仕事なのよ」
「保険の外交でしょう」
「違うわよ」
 叔母はわたしを見つめた。
「大丈夫? なんだか心配だわ。仕事ばっかりみたいじゃない」
「大丈夫よ」
 わたしは多少軽い苛立ちを感じながら答えた。わたしはもう心配されるような歳ではない。車はレインボーブリッジにさしかかり、叔母の興味は車外に戻った。橋の上から見える港湾施設と、港に面した街並みに惹き付けられている。
 叔母の興味の対象から外れて、少なからず安堵したのは事実だった。

'Time difference'
Satoshi Saitou
Create : 2001.03.04
Publish: 2010.07.10
Edition: 2
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