わたしは叔母より先に出社しなければならなかった。中区分室での、口頭による引継ぎ確認のためだ。昨日パッドを渡してあったので、特に心配はしていなかった。横浜の主な街区や鎌倉のような観光地なら、パッドを使ってのガイドインフォメーションは充実しているし、パッドのガイドからよほど外れた場所に行かない限り治安の心配もそれほどない。しかし皆無でないのも確かだ。遊牧的に世界中を移動する犯罪細胞――ノマドの構成員は国籍を問わない。彼らは群集に紛れ込み、群集に偽装する。偽装技術の稚拙な集団は淘汰圧に負けて消えていった。彼らはテロ集団ではなかった。テロ集団は自らの存在を喧伝する。それが存在目的だからだ。しかしノマドは隠れようとする。自分達の存在を公にはしたがらない。鎌倉に潜り込んでいても不思議ではない(あそこで何を狙うのかは確かに不思議だが)。もちろん目立ちたがり屋の変種は後を絶たないが、そうした変種が淘汰圧に打ち勝つことはない。
わたしが司令部の柏原に叔母に持たせたパッドのトレースを頼んだのは、万が一に備えてだった。わたしはいつものように自転車で巡回しながら柏原と交渉した。
「わたしが自分のパッドのトレースを頼むのよ。何がまずいの」
『私用には違いないでしょう』
「防犯部が良く使う手じゃない」
『ナイチンゲールがそんな監視をする必要はないでしょ』
「別にあなたに報告してくれなんて頼んでないわ。ただ、トレース情報をわたしに転送してくれればいいだけなのよ。いままでそんなミスはなかったの」
『ないわよ。馬鹿にしてるの』
「ごめん。今のは忘れて。転送してくれる? してくれるわよね」
しばらく間があった。
『‥‥高いわよ。この会話も抹消しなくちゃならないんだから』
「ちゃんと覚えておくわ」
『さっさと消えて』
言われたとおりにした。わたしはペダルを漕ぐ。関内の駅前からスタジアム横を走り、海岸へ通じる道をまっすぐに。ビジネス街と官庁街。ショッピングウィンドウに飾られた柔らかそうなデザインの木工家具を横目に。
やがてサングラスにトレース情報が投影された。柏原に感謝。叔母は、正確には叔母が持っているはずのパッドは横須賀線に沿って南下を続けている。司令部の監視領域をはずれているがトレースできているのは、パッド自身のGPS機能を利用しているからだった。司令部はパッドの実際の位置を追っているのではなく、パッドが送信するGPSからの位置情報を受け取っている。地勢情報への文字通りのマッピング作業は司令部側で処理されていた。
公園通りの手前で信号待ち。ヘルメットの顎紐を直す。
わたしは柏原との会話を思い返していた。彼女は監視という言葉を使った。確かにわたしが頼んだことは監視作業だ。しかし、それは叔母に万が一の事が起きた場合に備えてのことで――いや、ごまかすことはできない。わたしは叔母を監視下に起きたかったのだ。一人にするとどこに行ってしまうのか、それが心配だったのだ。パッドを持たせておけば消えることはできない。叔母がパッドを置いて出て行ったらまた別だが、それでも最悪痕跡を追うことはできる。TCを使う時、デビット/クレジットを使う時、ATMを使う時。痕跡すら残さないためには全てキャッシュで済ますことだが、叔母に円の持ち合わせがそれほどあるとは思えない。もし叔母がパッドを誰か他人に渡していたら話は別だが、そんなことをするとは思えない。
左手に山下公園を見ながら走る。風が少し冷たく、心地よい。暑くもなく、寒くも無く。自転車を飛ばすにはちょうどいい季節だった。
『01から209。コール。中区寿町4-1付近。クライアントは木下郁夫、67歳。オートコール。移動なし。接触事故。警察との折衝完了。地元救急に連絡済み。A4手配。現着時間未定。搬送先検索中』
「209了解」
わたしはギアを上げた。マリンタワー付近から渋滞がはじまっている。この辺りはいつもそうだ。自動誘導が主流になっても、道路の絶対面積に対して流入する車が多すぎる以上、渋滞は決して解消されない。わたしは車と車の間に自転車を乗り入れる。これがわたしの強みだ。
クライアントの容態は良くなかった。自動誘導された車の前に突然飛び出し、接触。路面に転倒しそのまま昏睡状態に陥った。頭部外傷。脳内出血の既往歴を持つのが不安材料だった。パラメディックのわたしではそうしたことについて何も判断できない。資格が無いという意味ではない。無論A4にも難しい。そこで、A4をサポートするため、わたしも同乗することになった。いないよりマシという意味だ。自転車はA4の上に積んだ。搬送先は中央病院。目と鼻の先だ。
A4は――A4に限らずうちの社が管理するAシリーズは全てロボットだった。基本的に人間のオペレーターは必要としない。Aシリーズはテレプレゼンス、テレオペレーションの移動端末であり、必要があればERセクションの医師が遠隔で処置を取ることもできる。しかし、無線経由は不安定だし、セキュリティ的な不安も多く、よほど緊急に迫られない限りテレオペが行われることはない。Aシリーズに対応したテレ設備を持つ病院が少ないということもあるし、敬遠する医師が多いということもある。そのため、わたしのようなナイチンゲールが――なんでも屋のパラメディックが同乗し、医師の目となり手となって初動処置を任せられることになる。無論、不満はない。
わたしはサングラス越しにクライアントを見る。やせた初老の男性。白髪。アンビュランスマスクをA4の作業アームが上から抑えている。頭部の打撲が懸念されているため、顎を持ち上げてはいなかったが、頭が左右に振れないようパッド付きのアームを使って固定していた。指先にはオキシメーターがはめられ、頚部にモニタが取り付けられている。こうしたA4が採取しているモニタリングデータに加えて、わたしが見ているものもそのまま収容先の病院に伝えられていた。
『GCSで4』若い医師の声。初めて聞く声だった。『クモ膜下出欠の既往あり。血圧が高いな‥‥MRIもないんだろう』
「ありません」
『中を見ないとなんとも言えないよ』
「そちらにはあるんですか」
『もちろん』愚問だったが気にした様子はなかった。『あとどのくらいかかる?』
A4が割り込んだ。
『4分』
『誰だい、今の? まあ、いいや。4分後だね? 予約は‥‥空いているね。運がいい。到着しだい検査できるよ』
「解りました」
『それじゃ、よろしく』
わたしは壁によりかかった。わたしにできることは何もない。意識レベルが上がったら呼んでくれという。そのくらいのことならA4にもできるし、4分程度で到着するなら監視の必要もないかもしれない。地元の救急車輌に収容されたら、車の揺れに備えて患者を抑えていなければならなかったかもしれないが、今はA4の作業アームがおさえている。突然クライアントが暴れだしたりしない限り、わたしは座っているしかないだろう。まさかA4から飛び降りるわけにはいかない。自転車を積んでいることもあるし。
わたしは叔母のトレースを表示させた。
彼女は鎌倉駅付近にいた。おそらく駅を出て東側ターミナルにいる。鎌倉は観光地としては中途半端だ。景観保存を言い出すにはすでに遅かった。それでも主要な建築物は今でも保存されているし、叔母はそれで満足するのではないだろうか。
叔母はターミナルを移動し、大路へと向かっているようだった。わたしも鎌倉は何回か足を運んだことがある。彼女が目にしているものは、わたしにも想像できた。叔母の目は大路と、大路に入る手前の、観光客をあてこんだ土産物屋街に向けられるだろう。叔母はみやげ物は帰りがけでいいと考え、まずは大路に出る。そして段葛を通って再建されたばかりの真新しい八幡宮に行こうとするだろう。
果たして、叔母はターミナルを抜けて大路に出ると、交差点の角で止まっていた。信号を待って段葛に移るつもりなのだろう。
『おい、どこ見てるんだ』
不意に呼ばれ、我に返った。先ほどの医師だった。
『顔を見せてくれ。鼾はないよな』
わたしは叔母のトレースを消し、クライアントを注視する。
『こちらは接触事故が昏睡の原因ではないと見ているんだ。出血があって、転倒し、接触したんじゃないかってね。まぁ、MRIで確認するけど、ただ、事務からね』
相手の言いたいことは解る。
「身元はこちらでも確認中です」
『基本医療保険ぐらいは入っていることを願うよ。モメるのは嫌なんだ。後味悪くてね。‥‥おっと、来たな。なんだあれ、自転車乗っけてるぞ。患者のか?』
A4には窓がない。だからわたしには外の様子がまるで解らなかった。
「どこにいるんですか」
『救急外来の精鋭ナースユニットと一緒に受入ドックにいるよ。僕は待合室のモニタを拝借して、そちらのデータを見てる。おっとドックに入った。ごついね』
A4が停まった。同時に三方の壁が一斉に持ち上がる。わたしは後ろに転げ落ちそうになった。A4は緊急外来の車輌搬送用ドックに入っていた。クライアントが横たわるストレッチャーの向こうにナースが3人、医師が一人。ストレッチャーを脇に待ち構えている。ドックは横に長い空間で、奥の壁には扉が4つ並んでいた。中央には通路があることが解る。
A4はストレッチャーを載せた架台を回転させ、スタッフ側に差し出した。クライアントを乗せたストレッチャーが引き出され、代わりに空のストレッチャーが乗せられる。
「検査へ」
医師がナース達に指示する。ナースはストレッチャーを押して、通路の向こうへ消えていった。年嵩のナースがインカムに囁くのが見えた。
わたしはここで御役御免だ。伝えるべきことはモニタリングシステム経由で既に伝えられている。ここで報告すべきものは何も無い。
わたしはA4からアスファルトの路面に降りた。病院の床面は私の胸の高さにあった。A4は作業アームを伸ばして、屋根の上の自転車を降ろそうとしている。医師がドックの縁に近づいた。マルスのスニーカーが目に入り、見上げると彼は膝に手を付いて路上にいるわたしを見おろしている。まだ若い。たぶんわたしと同年輩だろう。でも見栄えは良くない。髪ばぼさぼさ、髯の剃り残しが目立つ。目も赤い。運び込まれたクライアントの方が血色は良かった。
「お疲れ様」
そちらこそ、とわたしは答えそうになった。
「後は任せて。この自転車、あなたの」
「ええ」
「健康的だなあ。あ、今月から救急外来担当になった榊枝です。よろしく」
「柊です」
「それじゃ。柊さん。僕はあの患者をフォローしないといけないんで」
榊枝は言うなり病院の中へ消えた。わたしは自転車に跨った。A4はゆっくりと走り出し、ドックの出口から表へ出て行った。わたしもその後を追う。