叔母が来日するという。それも一人で。
わたしには人並みに父が一人と母が一人おり、加えてもう一人母がいる。小さい頃わたしはそのもう一人の母を叔母さんと呼んでいた。今でも叔母さん、あるいは彼女の名前であるソフィーと呼んでいる。他に呼びようがないからだ。まさかアルファフィーメイル、ベータフィーメイルなどとは呼べない。だが、母については今でもママと呼んでいる。彼女の名前、マルガレーテはあまり口に出せない。叔母のようにマルガとも呼べない。その名前には距離を感じる。
ところで、叔母というのが母の姉妹を指すことを知ったのはプライマリスクールに上がってからだが、そのことはわたしの家族に対する知識を少なからず混乱させた。わたしは母と叔母が姉妹でないことは知っていた。母と叔母の母は同じではなかった。無論、父も違う。つまり、わたしには祖父母が3組あり、そしてそのことをあたりまえのように受け入れていた。物心ついたとき、すでにそうした環境にあったのだ。疑うはずもなかった。メリットもあった。クリスマスにしろ誕生日にしろプレゼントと名のつくものはそれだけ多くもらえた。
だが、プライマリスクールのプログラムで与えられた最大公約数的な知識はわたしの家族がノーマルではないことを教えていた。もっとも教師の方でも事情は良く知っており、わたしの家族がアブノーマルだと言ったことはなかった。ただ、ユニークだと評されたことは覚えている。内心どう思っていたのかは知らない。
わたしの家族が当時ユニークであったのは確かだ。今はどうだろう。プライマリスクールのプログラムが今どう教えているのか、わたしは知らない。子供を持てば知る機会もあるだろうが、今のわたしに子供を産むつもりは無く、作るつもりも無い。引き取るつもりも無い。今のわたしでは精神的にも経済的にも自分自身を支えるのが精一杯で子供を育てていける自信はなかった。サーベイランスを受けない母親が、受けた母親より容易く子供を殺してしまうのは統計的な事実だ。サーベイランスを受ければ、わたしが子供を持つことは先延ばしするよう勧告されるだろう。そんなことは解りきっていた。
あえて持とうと思うこともない。
それはわたしの家族に原因があると昔、桂に言われたことがある。あなたは家族というものを信じることができないから自分の家族を作ろうとしないのだ、と。しかし、それは的を射ているとは言えない。もっとも桂もどこまで本気で言ったのかは解らないが。しかし、わたしが家族を信じていないとどこから思いついたのだろう。
わたしの家族構成がユニークなのには、それなりの経緯があった。わたしはそのことを叔母から――つまり、もう一人の母、ソフィーから聞いた。父と母は話そうとはしなかった。話題に触れることすらあまりせず、話題に近づくことすらなんとかして避けようとしていた。なぜかは解らない。避けるような内容ではないとわたしは思う。しかしわたしは彼らと実時間で付き合っていたわけではない。当時何があったのか、どのような感情の流れがあったのか、結局のところは推測するよりしかたなく、それすらも所詮曖昧になるのは仕方なかった。教えてくれるのなら、その時になれば自分達から話してくれるだろう。
ソフィーから聞いた話をまとめるとだいたいこうなる。
父と母は東京で出会ったという。
国籍というカテゴライズが両親の血筋で決まるのだとすれば、父は紛れも無く日本人だ。父方の祖父母は小田原の郊外に暮らしている。そこから先十数世代遡っても海を越えることは無いだろう。母はアメリカ人だった。だが、父が日本人であるのと同じ意味で母がアメリカ人と呼べるのかどうか、わたしは時々疑問に思う。母は未だにアメリカ国籍だが、それはサンフランシスコ郊外で生まれたからに過ぎない。母の祖父は香港系移民の二世で、祖母はヒスパニック系移民だった。だから母は何人とも言い難い顔立ちをしている。わたしはおそらく祖父と父の影響で、アジア系の色が強いと思うが、やはり母に似て、一見すると解らないらしい。トロントでは良くそういわれたものだが、そもそもあの土地でアジア人の顔を一見して識別できる人は少なかったはずだ。
母はビジネススクールでMBAを取得後、ソフトウェアシステムを扱うインテグレーター企業に経営コンサルタントとして就職した。そして、その企業の日本法人設立と同時に、一種の顧問として技術指導の目的で訪日した。父はその日本法人の顧客企業に勤めていて、そこで出会った。あの業種では特に珍しい話ではなかったらしい。
だが、結局のところ母は会社を辞め、カナダへ移住してしまう。何があったのか、わたしは知らない。教えてくれない。叔母も良くは知らないらしい。母はトロントに新しい勤め先を見つけ、そして叔母と同棲を始めた。叔母はフランス系カナダ人だ。ケベック郊外で生まれた。叔母系の祖父母は今はモントリオール(のフランス圏)に住んでいる。
母と叔母はトロントで暮らしていたが、1年ほどして父が押しかけた。そして、一緒に住むことになった。好奇の目は当然強かったらしい。だが、父と母はそれがどのような内容を伴ったものであれ、結婚式を挙げた。そして、わたしが彼らの歴史にようやく登場する。
要点はこうだ。
母は排卵可能だが、受胎は難しかった(これが事実なのかどうか、実は知らない)。そこで、父の精子と母の卵子を受精させ、叔母の子宮に着床させた。つまり、叔母はわたしを産んだが、遺伝的な繋がりはない。わたしは母の遺伝子の半分を貰い受けたが、彼女に妊娠線が無い。叔母と父の関係は微妙だったと思う。結局、父は母を叔母に取られたわけだし、叔母は父との距離を詰めることができないでいる。そのことは残念だが、しかし、誰の家族も何かしら問題を抱えている。そのことは警官時代に嫌というほど知った。もちろん、わたしの親達がその中でも多少ユニークなのは確かだ。でもそれなりに平和だったし、それだけでも貴重なことだと思う。
父は結局家を出た。わたしが4歳になった頃だ。父は近所のアパートに越した。今もそこで暮らしている。母と叔母は時々父のアパートを訪れ、父は時々母と叔母を訪ねる。男とはそれくらいの付き合いがちょうどいい、と叔母は言ったことがある。わたしには何ともいえない。母は叔母と口論になると、家を飛び出して父を訪ねることが多かった。そして父が家までやってきて、わざわざぎこちないフランス語で叔母をなだめることもあった。わたしには、それなりに三人仲良くやっているように見える。もちろん感情の深いところまで、わたしには知ることが出来ない。あえて知ろうとも思わない。そこまで立ち入るつもりは無いし、立ち入ることは難しい。
桂の指摘は、あまり的を得たものではない。しかし、叔母の存在が、わたしに家族というものをあえて意識させるのは確かだった。
その叔母が来日するという。それも一人で。トラブルの気配を嗅ぎ取らないではいられない。どうせ他愛もないトラブルなのだろうが。