『あなたのところに行ったの』
と、母は言った。画面の向こうに映る母の表情は苛立っていたが、声には安堵の色を感じることができた。
『急に荷物まとめて出てっちゃって、モントリオールの大叔母様の所でもなくって心配していたのよ』
「どういうこと?」
母が言う大叔母様とは、ソフィーの母のことだ。わたし達家族は言葉を解釈しなおしている。わたしが使う「叔母」という言葉にこめられたニュアンスは他の人と違う。
『いつものことよ。叔母様は話の解る人だから、戻っても逆に諭されるだけだということが解っていて、今度はあなたの所に押しかけたのね。本当にしようのない人。子供みたいで。でも、あなたのところなら安心ね』
「ちょ、ちょっと待ってよ」
『いいじゃない』
母の答えはわずかに遅い。絶対的な距離を信号が往復する、そのギャップが時差となる。母の言葉は数ミリ、数十ミリ秒遅れてわたしに届く。わたしが見る母の姿はわずかな過去にいる姿。その電気的なギャップはどうにも埋めようもない。
『あなたこないだのクリスマス一泊しただけで帰ってしまって、ソフィアはとても寂しがっていたもの』
「だって、わたしは待機しなければならなかったのだし」
『彼女を追い出しても、こちらにすぐ戻っては来ないわよ』
そうなれば叔母のことだから、路頭に迷うようなことはせず、ホテルにでも泊まるだろう。たぶん、一人で。特に誰とも会おうとはせず。それは胸が痛くなるような想像ではあった。
「追い出すなんて。だいたい、そっちで何があったの?」
『いいから、しばらく一緒にいてあげなさい。いいじゃない。なかなか機会がないんだから。そうでしょ? 愛してるわ。ホリィ』
「わたしもよ。ママ」
そこで切れた。暗くなったディスプレイにわたしの顔が映る。母に似たわたしの顔立ち。
「マルガと話してたの?」
叔母がキッチンスペースから戻ってきた。聞こえていたはずだ。広いフラットではない。わたしは叔母を見つめる。
「叔母さん、家出してきたの?」
「彼女、そんな風に言ったの」
「いいえ」
叔母の表情は静かなままだった。わたしは戸惑う。感情的な衝突があったのなら、そしてまだ間もないのなら、少なからず動揺があるはずだった。それが叔母の性格だ。叔母はわたしが育つのを見守っていたが、わたしも叔母を良く見ていた。彼女がそのことを気付いているのかわたしは知らない。
「家出といえばそうかもねえ」
「モントリオールにもいなかったってママは言ってた。トロントの家は叔母さんを探したはずよ」
「確かに、断りなしに出てきてしまったから」
「何があったの?」
叔母はリビングの壁に寄せられたカウチに腰を降ろした。床に落ちている惣菜パッケージの包みを拾い、近くに落ちていた生分解ポリエチレンの袋にいれる。
「だらしないわねえ。マルゴが見たら何て言うか」
「想像はつくわ」
そこでわたしたちは声を合わせた。
「部屋が乱れているのは心が乱れているからだ」
わたしたちは笑った。叔母も散らかし屋という点では人後に落ちないとわたしは思う。それで良かったのだと思う。母は几帳面だ。几帳面な人間が二人いれば、片付け方を巡って衝突するだろう。
「仕事忙しそうね」
「警官をやっていた時よりも、確かに、そうね」
「きつい仕事なの」
「内容は大して変わらない。ただ、人手がなくて」
「なり手がないの」
「採算が合わなくなるから増やせないのよ。そこが警察と違うところね」
「羽振りは良さそうね。良さそうな自転車があったじゃない」
「それほどでもないわ」
「明日、貸してくれない?」
「駄目よ。仕事道具なんだから」
「東京をぐるっと見てまわりたいんだけど。この辺りでいいから」
「ここ、横浜よ」
「横浜って東京にあるの?」
「違うわよ」
わたしはあきれたが、人のことは言えない。わたしだって同じようなものだった。
「叔母さん、日本で車は道のどちら側を走ると思う」
「右側じゃないの?」
「じゃないの。駄目よ。そんな人に危なっかしくって貸せないわよ。レンタルも駄目。国際ライセンスないでしょう。日本では自転車借りるとき必要なんだから」
嘘だった。
「せっかく日本に来たから、あちこち見てまわりたいと思ったんだよ」
「それは解るけど‥‥あしたはわたし仕事があるし。叔母さん、ガイドブックぐらい買わなかったの?」
叔母の顔がぱっと明るくなった。ちょっと待ってて、と言い残してキッチンスペースへ。その先は玄関になっていて、そこには叔母のトランクが置いてある。ばたばたとリビングに戻ってきた。
「ほら、モントリオール空港で買ったのよ。見てよ、見て。‥‥鎌倉、奈良、京都、神戸、長崎だって。一日でまわれるのかな。ホリイは行ったことある?」
わたしは気が遠くなりそうだった。
「ちょっと貸して」叔母の手からガイドブックをひったくると、必死になってページをくくった。久しぶりに見る大量の英文は懐かしい感じがする。まだ英文を流し読む能力は衰えていない。ずいぶんと分厚いガイドブックだと思ったが、半分はフランス語版だった。フランス語版も読めなくはないが、読む必要はない。「横浜!」
勝ち誇ったように開いたページを叔母につきつける。
「ここなんてどう? 山手、本牧、ほら、外国人墓地だって。叔母さんの遠い親戚とか昔日本に来たことなかった? 歴史のロマンよね。ここだと、歩いていけるわよ」
「横浜なんて、半日もあれば見て回れるのでしょう」
「そりゃ、確かにカナダに比べたらささやかなものだろうけど、それでも十分に広いのよ」
「でもねえ」
「解った。それじゃ、鎌倉はどう? わたしのパッドを貸してあげる。これがあればシティマップも英語で呼び出せるし、電車のチケットもレストランの支払も私の口座が使えるから」
「フランス語は駄目なの?」
「フランス語はセットしてないの」
「そういうところであんたはマルゴの味方なのよね」
「何言ってるのよ」
「いいわ。鎌倉ね。それで我慢してあげる。パッド貸して。それで、どうやって行けばいいの?」
「ちょっと待ってて」
わたしはオーディオコンポの上に積みあがった雑貨の山――すでに腐っているかもしれないリップスティク、櫛、トロント警察時代のバッジのレプリカ、これもやはりレプリカのハローポイント弾、デオドラントスプレー、支社に入る時必要なIDプレート、交換して使わなくなった自転車の鍵、ピザ屋の割引券、対UVファンデーション等々――からパッドを救い出した。後ろで叔母がため息をつくのが解った。
「これ。わたしは明日キャッシュを使うから」
「悪いわね」
「いいのよ。――それで、鎌倉への行き方だけど、パッドに記録させた方が便利よね」
「そうね」
わたしはパッドに地図を書き始めた。乗る駅、降りる駅。駅名の読み方。有名な寺社仏閣の位置。休憩場所。そして、叔母の生体情報をパッドに記録し、わたしと叔母以外は使えないように設定した。パッドそのものには電話が組み込まれているから、盗難されても追跡できる。盗難の心配はしていなかったが、盗難されている間、悪用されることは避けなければならなかった。何時の間にかそうした諸々の事で時間を忘れた。
結局わたしは叔母の突然来日した理由を聞くことを忘れてしまった。聞いたつもりになっていた。そのことは後になって気が付いた。叔母はわたしをはぐらかしたのだと思う。からかわれたのだ。第一、父は日本人だし、母は日本で働いていた。叔母が日本の地理にあれほど不案内ということはないはずだった。