勇気のしるし
6.

 キャビンに用意されたスクリーンの前に韮崎が立つ。そのスクリーンには榊が手にしているパッドに表示されている画面がそのまま映し出されていた。キャビン内の観客たちは韮崎の方ではなく、自分たちが持ち込んだパッドに目を落としていた。
「‥‥以上が、このたびリョクヨウ・モードが提案するモード・テンプレートです。次に、このテンプレートに対する各種バリエーション例の概覧に移らせていただきます‥‥」
 榊はパッドのディスプレイ面をなぞり、表示させるデータを変更した。その操作はキャビンを包むデータバスネットを経由して、韮崎の背景を変化させ、その他観客たちが手にするパッドの表示を変化させた。
 韮崎は滔と淀みなく、心理学的に計算された強弱をつけて説明を続けた。榊にとっては退屈な話だったが、榊以外の人間にとってそうではないらしかった。
 パッドの表示が韮崎が使うレーザーポインタの指示にしたがって切り替わった。あの大型のスクリーンも、限定的な機能しか備えてはいなかったが、パッドなのだった。
「‥‥さて、次にこの新モードによって惹起される社会的効果の速度と規模のシミュレーションに移らせていただきます。このシミュレーションはまったく別個の2つの独立系シンクタンクの調査結果と当社が独自に作り上げた予測モデルから導かれたものです‥‥」
 ここから先のデータには榊も一枚噛んでいた。このシミュレーションに用いた予測モデルを作成するための背景データを榊はかき集めたのだった。
「‥‥この予測モデル作成にあたっては、そこの榊データリサーチャーにご助力いただきました」
 観客の間からどよめきが起きる。榊はデータリサーチ業界でちょっとした有名人だった。
 つまりはおれ自身も宣伝に使うわけだ。榊は思った。緑陽系列べったりという噂が立つのはごめんだが‥‥。
「それでは説明を再開させていただきます。まずはノンモチベートモデルでの予測から‥‥」
 韮崎が属するリョクヨウ・モード社のマーケットモチベート部門というのは要するに市場形成部門だった。メディアを最大限に利用し、実際の製品を市場に出す前に需要を用意するのがその目的だった。かつてアパレル産業では、事前に翌年の基調となる色を打ち出していたが、韮崎らが手がけているのは色にとどまらない。それはファッションモード全般にわたる消費者の嗜好誘導だった。あらかじめ消費者の嗜好を支配してしまえば、他社を合理的に排除できるわけだ。その宣伝広告に名を借りた心理戦争は熾烈そのものだった。今では個人のデザイナーが新風を巻き起こすことなどありえない。新風を巻き起こすように演出されるだけだ。
 説明がモチベートモデルに移る。榊はパッドを操作し、シミュレーション結果のアニメーションを再生させた。その表示はもちろん韮崎の背後にあるスクリーンや、観客たちのパッドにも表示される。
「‥‥このように、これらの誘導活動により、従来の2.7倍の需要を見込めることになります‥‥」
 さぁ、それはどうだか。榊は思った。予測は予測だ。予測モデルも所詮はできの悪いシミュラクラ以外の何物でもない。一番よいモデルは現実をおいて他にないのだから。
 とはいえ、これはメシの種だ。それをぶちこわしにするつもりは榊にはなかった。
 榊は半分だけ韮崎の方に注意を向けながら、窓の下に広がる房総の山並みを見下ろした。
「‥‥イエスかノウか、ここではっきりと述べていただきたいと考えております。
我々のプロジェクトに全面的に御賛同いただけるでしょうか‥‥」
 榊は最後の映像を表示してやる。もう韮崎が喋る言葉の意味も、観客の反応も、彼の興味の対象にはなかった。今回は何とか無事に終わった。
 水口には辛いものをたっぷり奢ってやろう。嘘偽りなく。榊はそんなことをぼんやりと考えていた。もちろん水口が辛いものを苦手にしているのは百も承知だった。

'The Sign of Courage'
Satoshi Saitou
Create : 1995.12.01
Publish: 2010.07.04
Edition: 3
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