ビジネスジェットは滑走路から浮き上がった。機内にいるリョクヨウ・モードの商売相手達は互いに談笑し、真小笠原流の作法にのっとって名刺交換の儀式を行っていた。その光景は系列で生まれ育った生え抜き社員のコミュニティに特有のものであり、つまりは榊のような外部フリーランスには幸いにも縁の無い手続きだった。
榊は借りたパッドに目を落とした。機能拡張ソケットにバースト送受信モジュールと使い捨て暗号によるデコードモジュールを差し込んである。盗難に遭ったパッドは電話回線の呼び出しには応答していたので、置き引き犯はまだパッドに気づいていないか、パッドの操作方法を知らないものと思われた。後者の可能性は少なかった。今日び初等学校への進学祝いにパッドが贈られるような御時勢だ。パッドの使い方を知らないというのは息の仕方を知らないというのに等しい。
榊は水口からの合図が待ち遠しかった。いつ犯人がパッドを破壊してしまうかもしれない。その前にデータを吸い上げなければリョクヨウ・モード社のビジネスは失敗するし、せっかく持ち直してきた榊の信用度もまた落ちてしまう。
〈耳〉が鳴った。
『今です』
榊の指がパッドのディスプレイ面をなぞった。榊が借りたパッドは盗まれたパッドに接続し、起動させ、その結果を表示する。榊のひざの上にあるのは紛れも無く他人のパッドなのだが、今起動している環境は本来の榊のものだった。何の不思議も無く、榊は他人のパッドを自分のパッドとして操作していた。
榊はついいつもの癖でスケジューラを起動させようとしてしまうが、思いとどまり、緊急転送を指示する。その瞬間、ディスプレイ面は本来の、他人のパッドとしての表示に切り替わり、データ受信の開始を知らせていた。
榊の言うバースト通信とは通信回線の品質から割り出される通信速度の上限ぎりぎりでデータ転送を行うことを意味していた。それはただ単一のデータマッスをやりとりするためだけのものであり、本来ならデリバリータグやシーケンス、誤り訂正符号などに用いられる部分もデータで埋め尽くしてしまっていた。文字どおり古典的なデータ転送方法だ。
ただし、この転送を行うためにはパッドをデータ送信のためだけに動作させ、回線も一本に絞らなければならない。NTNデータセキュリティはパッドの位置を割り出すためにパッドの電話を呼び出しているはずだった。パッドからのコールバックが返る無線局から位置を絞り込むためだが、そのトラッキング作業が行われていると、バースト送信ができない。そこでバースト送信のための時間を空ける必要があるわけだが、その時間帯のことをウィンドウと呼ぶ。
程なくして、榊の読みどおり、30秒を待たずに送信は完了した。
「水口、吸い上げは終わった」榊はパッドを再起動させる。そこには榊の環境がそのまま再現されていた。「うまくいった。こちらの方はなんとかなりそうだ」
『ほっとしました』
「そっちも気を抜くなよ。取り戻せなかったらクリアするしかないんだから」
『解ってます』
「それじゃ。こっちはこれから本番だ」
榊は装着端末の回線を切った。