森が光という光を吸い込んでいる。木々の間から、黒々とした稜線が光る星野を背景に横たわるのが見えた。ナガハマ達の胸に強いものが湧き上がる。あの稜線は母なる土地の連なりだった。この先を下り、谷川を越えればそこが母国だ。もちろんそれで全て安心できるわけではない。この辺りで国境などあって無いようなもの。それに、肝心の谷川までにずいぶん距離を置いている。だが、クニの姿を目にできるだけで心強さはずいぶん違う。
「あと一息だな」
ニキが暗がりのどこかで呟いた。
「6粁てところでしょう」ダンダが応える。「あと4粁も行けば空は白みはじめます。川へ辿りつく前に日が昇るでしょう」
「済みません」
ユキカ尼が言う。なにが、とニキ。
「わたしが皆さんの足を止めてしまって」
「それは言いっこなしだ」ゴンドが怒ったように言う。「好き好んで休んだのは俺達なんだから」
ユキカ尼の何かと自分を責める口ぶりがうっとおしく耳に堪えるようになっていた。
「どうする尼様」ナガハマは振りかえらずに言った。「行くか、戻るか。尼様が決めてくれ」
「もちろん、前へ。でも、なぜ」
「今の俺達には前しか見えない。振りかえっても何も見えない。戻るつもりもない。今、ここからどこに行くかだけを考えればいい」
「過ぎたことを悔やんでも」尼の言葉が不意に途切れた。「悔やんでも仕方ないと」
悔やんだのはナガハマだった。言葉を選ぶ。
「忘れろとは言わない。だが今は悔やむ時間も惜しい」
「‥‥そうですね。行きましょう」
暗がりに足を踏み出す。足元で落ち葉がかさりと音を立てた。落ち葉は濡れて、滑る。
「ゴンド、ニキ、足元は平気か」
「このくらいなら、なんとかな」ニキがどこかから答えている。「オンドはおとなしいから助かるよ」
「もの言わず、身じろぎもせず」
ゴンドが応えている。
「――マヒナの価値をトリマは知らんのだ」
初めて耳にする声だった。ナガハマの足が思わず止まった。
「誰だ」
「オンドだ」ゴンドが答えた。「俺が背負っている方の」
「娘の方か」
「――連中は、なぜ我々があの不毛な山だけを要求するのか頭をひねっていることだろう」
棒読みは続く。
「我々にしてみれば、簡単な理由だ。マヒナこそが豊穣の角なのだ――」
「くそ、なんで口を開いた」
「お前が似合わずに気の利いたことを言うからだ」
「鍵の言葉ならもっと変わった言葉を選びやがれ」
「――連中は、我々が新たな世のとばくちにいることに気づいていない。あれをせいぜいが気の利いたやかんのようなものぐらいにしか思っていない。なんとも先の見えない連中だ」
ナガハマにはオンドの話す内容に心当たりがあった。先にあった戦の補償だ。中州の領有を巡っての争い。敵に誘い出されたまま河を越えた国王軍は奇襲を受けて敗走した。だが、敵は、中州の領有を認める一方で、その引き換えとしてマヒナを要求した。
マヒナは岩が多い山の中だ。砲を運び上げるには険しすぎ、街道筋からも遠すぎる。そんな土地を何に使うというのか。だが、彼らには益があるらしい。
オンドは囀りつづける。
「――奴等には今のうちに笑わせておけばいい。最後に笑うのは自然の力を御する者だ」
そこで、不意に少女は口を閉じた。
「ここまでか」
「思った通り、『聞いたまま』だったわけか」
「言っていること解ったか」
「さぁな。やかんがどうしたとか。マヒナは西のはずれにある岩山だろう」
ダザロウがこれに絡んでいる。いや、ダザロウは内容までは知らないのだろう。誰かが彼に知らせようとしたのだ。オンドの力、人としての心と引き換えに得た賢しさを使って。
「今のは一体‥‥」
ユキカ尼が訊いた。
「あんたは利用されたんだ」ナガハマは答えた。「あの子は、たぶん、どこかの邸か城で飾られていたんだろう。生きた人形、って奴だ。そこで何事かを聞き覚えるように仕向けられ、それはうまくいった」
「今のがそうだと」
「コンサブ-コンサバとしては断るわけにもいくまい。オンドを迎えに行くことには違いないんだから」
「それじゃあ、もう一人は」
「さてね。俺達が知ってどうなるものじゃなし。むしろ知らずにいたほうがいいかもしれない」
「タナタ坊は何も‥‥。教会を騙すなんて」
「何も騙しちゃいないんですよ。オンドを助けるというのは確かなことだ。なにせ、人形だ。毒芋の酒を飲ましたところで、この土地じゃ誰も咎めはしない。だろう? あんたは、そして俺達はそのオンドを救った。オンドを一人救うことで、この世界は少しづつ救われる。俺達はそう信じている」
ニキが暗闇の中で苦笑する様が目に浮かんだ。
「でも、全てを知らされていたわけではなかった」
「祭事に関わるもの、政事に関わるべからず。知らされていたら、どうしました。トリルとこの国はうまくいっている間柄じゃない。イノバの土地でコンサバの教会というのは只でさえ肩身が狭いのでしょう」
しばらく答えはなかった。
「シャフトも北へ行けばもうイノバもコンサバもない」ユキカ尼は呟く。「だからこそやっていけるのです。でも、タナタ坊‥‥なぜ」
「その、タナタ坊は本当に何も」
「何も。ただ、坊はやかんを」
ナガハマは訊き返した。
「彼女がさっき言った、やかん。北ではエンジンと呼ばれています。あちらこちらから湯気を噴き出して、大きな歯車が回り、鉱山の水をくみ上げたり、昼となく夜となく粉を挽き続けたり。坊はエンジンがお嫌いでした」
「なぜ」
「皆忙しいからですよ」尼は可笑しそうに言う。「乾いた砂はもう一粒たりと、北には残っていません。4年前まで乾ききった黄色い砂に埋もれた台地は水が引かれ、今は緑にその色を変えています。水であふれた坑道はすっかり水を抜かれてしまいました。重い臼を回す女たちはいなくなりました」
「結構なことじゃないか」
「そうですね。でも、お陰でもうイノバもコンサバもないのです。彼らを豊かにしたのはイノバでもなく、コンサバでもなく、エンジンなんですから」
「やかん様々、と」
ゴンドが言った。ユキカ尼がどういう表情をしたのかナガハマには見えなかったが、想像はついた。
「ナガハマ様」ダンダがそっと言った。「足音が近づいています」
「来たか」
ニキが呟く。ナガハマは腰のポーチから手探りでやすりを2つ取り出すと、それを叩くようにこすった。火花が散る。
「俺はここだ。集まれ」
もう一度、二度、火花を飛ばす。
「ダンダ、何人くらいだ」
「それは何とも。少なくとも五人程度の乱れた足音を感じました」
「様子見の伍隊か。その後には本隊が控えている。見つからず、逃げ切るか、それとも先手を打って本隊へ戻さないか。どうする、ナガハマ」
「子供背負ってちゃんばらできるか? 川へ急ごう。ニキとゴンドは先に行け。尼様は二人に続いて。ダンダと俺は後詰めだ。ダンダ、ボルトはあと幾つ残ってる」
「残っているのはせいぜい5つ。でも、さっきまで石ころを拾っていましたから、それで何とか」
「流石。行くぞ」
一同は暗闇の斜面を降り始める。
それは張り詰めた神経が作る錯覚なのかもしれない。だが、ナガハマは後ろに追手の気配を感じていた。
業、とも言えるだろう。彼はこの緊張感を愉しんでいた。逃げ切れば勝ち。姿を見せず、風のように掻き消えられれば言うことはない。
夜空は薄く白んでいる。はっきりと目で姿が捉えられるようになるまで、もう間が無かった。
川までどれほどの距離を残しているのか、ナガハマに確としたところは解らない。追手がどこまで近づいているのか、確としたところは解らない。迷路のような森の中を、慎重に、しかし決して急ぎ緩めることなく、ただ歩き続けていた。いずれ、必ず森は開ける。川がある。無限に広がる森などない。
不安があるとすれば、それは、自分が今どこにいるのか解らないことだ。歩き続けて果たして良いものなのか。ここに立ち止まり、身を隠し、追手をやりすごした方が良いのではないか。いや、いっそ向きを変え、東へ、母国トリルではなく、キーロへ抜け、そのまま落ち着いた方が良いのではないのか。自分達が向かう先に間違いは無いのか。森に迷い、敵陣に飛び出してしまうのではないのか。
様々な迷いが脳裏をかすめる。だが、そのどれも確かめる術はない。しかし、どの道を取ったとしても、その道ごとの危険がある。安全な道など一つもない。だから、今歩いている道でも同じことなのだ。そう自分に答える。他の仲間、ニキやゴンド、ダンダが何を想っているのか、ナガハマは知らない。知る必要もない。ただ、もし今ここで自分が討たれれば、次に指揮をとるニキが同じように迷うだろうとは思っていた。そうであって欲しい。ナガハマは思う。自分一人の命がかかる判断ではないからだ。最善の道などありはしない。死ぬよりマシな道が何本かあるだけなのだ。
破裂音。その木霊が森に響く。
「止まれ」ナガハマは言いしな、手を背中へ。剣の柄を握る。「腰を落とせ。‥‥尼さんも」
彼は空いた手でユキカ尼の法衣を掴み、地面に引き降ろした。再び破裂音。
「盲撃ちか、何か勘違いしたか」
ダンダが呟く。
「相打ちならなお結構」
と、ニキ。静かに、とナガハマは制した。
「奴ら、こっちへ来るか」
「足音は増えている。何の遠慮もないな。追い立てているつもりですよ。連中」
「浮き足立たせて、下手打たせようってわけか。なめられたもんだ」
「余裕がそうさせているんだ」ゴンドが言う。「左右に回り込まれたら終わりだ。急ごうぜ」
「そうだな。ニキ、ゴンド、尼様連れて、川へ急げ」
「お前はどうする」
「仕掛けにまわる。離れて後を追う」
「二人で相手になると思うなよ」
「そこまで自惚れてはいない」
ユキカ尼が手探りでナガハマの服をなぜた。その指が彼の顔にたどりつく。顔形を確かめてさまよう。
「御武運を」
「正面から斬り合うつもりはありませんよ。大袈裟な」
「そうですか。とにかく、ご無事で」
「お互いに。‥‥そら、ニキ、早く行け」
三人の足音が遠ざかる。ナガハマは背中から剣を抜いた。
「連中、あとどのくらいでここに来る」
「半時とかからないでしょう。‥‥まさか、ここで」
「枕並べて討ち死にか? 死して光の土となりぬ、なんてな。冗談じゃない。こんな所で屍を晒すつもりはないさ。さっき、石を拾ったと言ったよな。拳くらいの石、あるか」
「もう少し小さいやつなら」
「それでいい。上に向けて放て」
「上? なぜ」
「つついてやるのさ」
「当たりやしませんぜ」
「いいのさ。できれば右手の方へ飛ぶようにやってくれ。物音を聞きつけてくれるようにな」
「そううまくいきますかね」
「いいからやれよ」
しぶしぶとダンダは取っ手を引いて強弓の弦を引き絞り、そこへ石を置いた。見当をつけて上を狙い、止め金を引く。ダンダの放った石は、運良く枝の間を抜け、暗い空へと上がる。
たいして待つこともなかった。銃声がこだまする。
「連中、生娘みたいに勘が強い。もう2、3個放りこんでやれ。同じ場所に落ちるようにな」
「また、無茶を」
ダンダは手際良く強弓で石を放つ。
「引き際だ。ニキ達を追うぞ」
「急ぎましょう」
まばらに響く銃声が追ってくる。しかしナガハマは心配していなかった。木立の中、しかもこの暗がりで、当たるはずがない。一斉射でもされればまた違うだろうが、それでも森の木々が障壁となってくれるはずだ。
ダンダは先を行く三人の足音を追っていた。自分たちの足音に紛れ込む他人の足音を聞き分ける力は、このような時、役に立った。ナガハマの方は背後の物音に注意を向けていた。彼らには獲物が近くにいると思いこんでいて欲しかった。もし、獲物がまだ遠くにいると悟れば、彼らの足もまた早くなるだろう。
森の中は僅かながらも明るくなりかけている。時間が無い。明かりを頼みに多勢で包囲を畳まれれば、考えるまでも無く、助かりはしない。