矢折れ、弾尽き、か。ナガハマは独り言づいた。闇に馴れた目に、前を歩くダンダの姿がぼんやりとしたシルエットとして見えていた。背後にはユキカ尼、ゴンド、ニキの歩く気配。明かりは全く無かった。ダンダの驚異とも思える土地勘と記憶力だけが頼りだった。彼らは夜の森をかれこれ4粁歩いていた。
あの村の住人が、あれからすぐさま夜をついて追跡隊を森に送りこんでいるとは考えていなかった。おそらく最寄の駐屯地に駆け込んで、兵隊を送りこむように手配するだろう。それが自然だった。連中は長いこと国境警備を務め、鍛え上げられた精鋭だ。士気は高く、装備も良い。本格的な捜索がはじまる前に、できるだけ国境に近づいていなければならなかった。
後でユキカ尼が何か言っていた。
「ダンダ、止まれ。全員、止まれ。小休止だ。‥‥尼様、何です」
「済みません。その、少しだけ、待っていてくださいませんか」
ナガハマには尼が何を言いたいのか解らなかった。
「どうかしましたか」
それを聞いて、ニキが笑い出した。
「バカか。ナガハマ。そういうことをご婦人に聞いちゃなんねえんだよ」
ダンダが吹き出す。
「明かりを起こしましょう。今はぐれられると、2度と見つからなくなる」
「国境までどのくらいだ」
「ざっと15粁。だが、こんな道です。ぶっとおしで歩いても、国越えは夜明け後です」
「いいから、まずは尼様に時間をあげろよ」ゴンドが言った。「ダンダ、火を起こしてくれ。軽く食べようぜ」
「そうだな」
ナガハマは答えた。その時すでにダンダはライターを使って、コールランプに火を移していた。そのぼんやりとした赤い火は、普段使うにはとても暗いものだったが、闇に馴れた目には充分明るかった。
「それじゃ、尼様、あっしらはここにいますから」
ゴンドの言葉にユキカ尼は頷いたようだった。ナガハマはニキに目をやった。ニキが軽く頷く。ニキとゴンドは負ぶっていた子供を降ろした。
「ダンダ、乾し肉があったろ。あれを軽くあぶってくれ」
「切り芋がありますよ。どうします」
「オンドに食わしてやれ」
ナガハマが代わりに答えた。ダンダは背嚢から串や、脂が染みて真っ黒になった小さな鉄板やらを取り出した。コールランプの傘を外し、炭を二つ三つくべてからその上に鉄板を載せる。次いで、背嚢から革袋を取り出すと、中からしなびた乾し肉を拾い、串に刺した。そのままゴンドに渡す。
「適当にあぶってくだせえ」
わざと汚く訛る。ゴンドはへへっ、と小さく笑った。
ダンダは、背嚢から、また別の革袋を二つ取り出した。そして、木の小さな深皿も。まるで台所が歩いているようだった。ダンダは革袋を一つ取り上げ、皿の上に中身を広げた。袋の中身は麦粉だった。くすんだ灰色をしている。ダンダは別の袋の中身をそこに注ぐ。今度は酒だった。ナガハマの顔が知らぬうちにゆるんでいる。ダンダは適当に注ぐと、匙でかき混ぜた。麦粉はどろどろになる。そこへあらかじめ細長く切ってある切り芋を落とし、次いで思いついたように乾し肉をちぎって混ぜると、匙ですくって鉄板の上に落とした。
「ちょっと豪勢だな」
「ま、食える時に食っておきたいですからね」
切り芋の混ざった麦粉のどろどろは、鉄板の上で音を立てていた。ゴンドがナガハマをちらりと見やって言う。
「オンドはこの味が解っているのかね。いつも思うんだけど」
「さぁな。とにかく食ってくれれば助かるよ」
まぁね、とゴンドは呟いた。ナガハマはその時、枝の折れる音を聞いたように思った。
「止めないで、止めないで下さい」
ユキカ尼の短く鋭い声。ナガハマは傍らの剣に手を置いて、じっと耳を澄ます。だが、暗がりからニキが姿を現し、男たちは緊張を解いた。ニキはユキカ尼の手首を掴んでいた。尼の目は赤く腫れていた。
「枝で首を突こうとした」
ニキはそう言って、折れた枝を放る。誰も、何も言わなかった。ダンダが焼けたどろどろをひっくり返す。ナガハマはふと思いついて、アマナ坊の形見となった金の魚をポーチから出した。血は乾いている。クンルンで作られたというこの魚は、何人もの血を吸っているはずだった。ミッションの中で命を落とす坊や兵部の数は、決して少なくない。彼らの殆どはトリマー教会奥にある巨大な書庫の片隅に置かれた名簿によってのみ名をとどめるだけだった。アマナ坊もその名簿の一葉に名を残す一人となったに過ぎない。彼の名は、おそらく彼にこの金の魚を託した御坊の隣に記載されるだろう。その場所は空けてもらっている、とアマナ坊はナガハマに打ち明けたことがある。彼らは教会の教義にではなく、ミッションに全身全霊を傾ける仲間としての紐帯により結ばれている。金の魚はその印でしかない。だが、その印しか残らない。
――そして俺は、その印すら持たない。
ナガハマは物思いを断ち切った。金の魚をユキカ尼に差し出す。
「これはあなたが受け取らなければならない」
「それは」
「アマナ坊の形見だ」
「私にその資格はありません」
「いや、違う」ナガハマは言下に否定した。「これはあなたが受け取らなければならない。俺達はミッションの中にいる。だが、それには教会の指示に従わなければならない。教会の下から外れれば、俺達はただの山賊だ。そして、ここにいる教会の人間はあなただけだ」
「しかし、私はコンサブの人間ではありません」
「コンサバなら俺達には誰も彼も同じだ。さあ、受取るんです」
ナガハマは腕を突き出し、金の魚を握るこぶしをユキカ尼の目の前に突き出した。
「さあ。任を果たすのです」
ユキカ尼はおずおずとナガハマのこぶしに手を伸ばした。ナガハマはこぶしを開く。尼はためらうように指で魚に触れ、そして、細い指でつまみ上げた。鎖が鳴る。
「これはあなたのミッションだ。あなたはあの二人」と、ナガハマは目で二人の子供を示し、「――に対して、無制限の責任を負う。責任を果たさずに死んではならない。そんな身勝手は許されない」
ユキカ尼は表情を硬くしたまま頷く。それを見たニキとゴンドは目配せを交わし、安堵したように微笑んだ。
「皆様方」ダンダがおごそかに口を開いた。「焼けました」
時間が過ぎていた。時間を無駄にすべきではなかった。それはナガハマには良く解っていた。ニキも、ゴンドも、ダンダも、それは同じだったろう。しかし、腰を上げるのが億劫になっていた。理由はわかっていた。声だ。尼の声が彼らの腰を重くしていた。彼女の声は千年照り付けられた砂に注がれる水だった。灼かれた砂にいくら水を注いでもあふれることはない。ガキの頃に戻ったようだった。ナガハマはとにかく声を聞いていたかった。内容は何でも良かった。
「‥‥それじゃ、尼様も彼らが何を覚えているのか知らないのですか」
ニキが訊ねた。ユキカ尼は背筋を伸ばしたまま殆ど微動だにせず、フードの奥から答える。白い顔は陰に隠れ、口元しか見えなかった。
「ええ。二人を連れてきたのはタナタ坊でした。坊は二人の由来を知っているようでしたが、教えては頂けませんでした。ただ、きれいな歌を歌えるとだけ」
「『聞いたまま』か」
「もう一人は『見たまま』かもな」
一同は美しく、醜い二人の子供に目をやった。青白い顔、輝くような白髪、醜い腫れ物。男の子の方は顔の右半分が腫れ物で膨れ上がっていた。女の子の方は首筋を、まるで醜い生き物を襟に巻いているように腫れ物が取り囲んでいた。その腫れ物さえなければ二人は美しい子供だった。ぞっとするほどに美しいだろう。二人は〈オンド〉だった。
「口を開く鍵の言葉も当然」
「知らされてはいません」
「俺達が知る必要もないさ」
「知らなければ良いこともあるしな」
今回のミッションはいつものような教会への無名の通報で始ったわけではなかった。ナガハマも全てを知っているわけではない。アマナ坊もそうだったろう。ただ、断片的に漏れ聞いた話を継ぎ合わせたところでは、国府院のダザロウに近い所から連絡が入ったのは確かなようだった。ダザロウといえば辣腕で知られる外交大臣で、国王の信は厚く、議会も一目置く人物だ。教会への寄付も大きい。きな臭い匂いは始めからしていた。
「二人の頭の中に何が収まっていようと、俺達には関係ない」ナガハマは言った。「俺達はあの二人を無事、教会に送り届ける。それが俺達の役割だ」
「説教垂れるな。ナガ」ニキが苦笑する。「百も承知。オンド一人を救うことで、この世が僅かなりとも光の星へ近づく。教会を信じているさ。――いや、信じなくたって、俺達は人を救っているんだ」
ニキは目をそらした。ゴンドは脇を見ながら口を動かしている。ダンダは火の心配をする振りをしていた。ナガハマにも解っている。
オンドは助けた。アマナは死んだ。村人も何人か死んだかもしれない。だが、口にしてはいけない。言葉にしてはならない。
ミッションの価値を問うてはならない。