病室の窓から対岸の木更津が見えていた。湾の中ほどから向こうは薄く白く霞んでいる。貨物船がゆっくりと北上していた。
「いい眺めでしょう」
ベッドの上で桂が言った。
「この景色はいつも見ていたような気がする」葵は外を見たまま答えた。「でも、改まって見るのは、初めてかもしれない」
「カナダの方が綺麗でしょう」
「そんなことは無い。風土が違えば景観も変わる。これはこれで」葵は桂を振り返った。「あと6日で、この窓から見える景色ともおわかれね」
「横浜とも、ね」
桂は淋しげに微笑む。
「決めたの?」
「怖いのよ。一度撃たれてしまうとね」
「私も撃たれたことがあるわ」
「でも、葵は元警官でしょう」
「警官だって恐怖は覚えるものよ」
桂は首を振った。
「わたしは駄目」
「辞めて、どうするの」
「静岡に戻るわ。しばらく実家でやっかいになって、地元の看護職を探すつもり」
「職探しには困らないでしょうね。推薦状は貰えるのでしょう」
「そういう話よ。ナーシング要員はどこも人手不足だし。地方となればなおさら。〈ナイチンゲール〉タイプのパラメディックがあればそれが一番いいんだけど。やっぱり好きだしね。――でも、あそこにはないのよ」
それきり会話は途絶えた。葵は窓の外に視線を戻す。他社の救急搬送ヘリがヘリポートへ降下していった。入れ替わり別のヘリが上昇していく。自社のAユニットだった。コードA2。
「落ち着いたら、招待するわ。遊びに来て」
「待ってるわ」
「わたしよりも‥‥葵の方が大変だったんじゃないの」
「それなりにね」口の端をゆがめて微笑む。「目標は逃がしたけど、それが良かったわ」
「どういうこと」
「県警のヘリが一部始終を監視していたのよ。ちょっとした感謝状が送られてきた。一市民の安全を確保した、というわけ」
「皮肉ね」
「あそこにいたC47のクラン6名が全員検挙されたということで、首の皮一枚つながった。奴は逃がしたけどね」
「まだ、こだわってるの」
葵は一瞬戸惑った表情を見せた。
「こうなってしまうと。忘れようにも」
「占ってあげるわ」
「やめてよ」
「いいじゃない。暇なのよ」
桂は笑った。ベッドの脇に立ち上がっている天板がゆっくりと折れ曲がり、テーブルになった。サイドテーブルの上に置いてある袋を取り、カードの束を出した。シャッフルする。
「今の状態」
カードを2枚めくる。「森」と「ライオン」。ははん、と桂はうなずく。
「先を見通せないが、とりあえず周囲のものを圧倒している状態。出口はないけど、危険は避けられる」
「わたしがライオン?」
「違うってば。あなたの今の状況は森にいるライオンのようなもの。森はライオンのいるべき場所ではない。しかし、ライオンにかなうものもいない」
「複雑ね。例えば女王とライオンだったらどう解釈するの」
「いいから信じなさい。――今度は葵がシャッフルして」
「カスタマイズするのね」
「そう。これから私は2つの選択をあなたに要求します。〈目標〉を追うか、追わないか」
「それで?」
「先に追わない場合を要求します。――適当なところでやめて、2枚めくって」
「追わない場合、ね」
葵は掌の中にあるカードの束から2枚めくり、テーブルに置いた。「愚者」「節制」
「ううん‥‥中庸ね。バランスはとれているけど、周囲が見えない。でも気にもしていない」
「本当?」
「シャッフルして」
そして、2枚めくる。「世界」と「魔術師」。
「魔術師というか、錬金術師なのよ」桂は呟いた。「秘密を解き明かそうとする者。知識を追う者。なんだか大袈裟だけど、あなたは世界の秘密を知ろうとするでしょう」
「‥‥何それ」
葵はカードの束を桂に返した。
「秘密って言うと変だけど、今まで隠れていたものを明らかにする、とか発見する、とかそういう感じね」
「御神託は有り難く受け賜わらせていただきますわ」
桂は吹き出した。
「どこでそんな言い回し覚えたの」
「トロントにいた日本語の講師」
二人は笑った。
葵はテーブルに置かれた「魔術師」の絵柄を見つめた。フラスコや坩堝を前にした男が一人、両手を前に掌を上にして、何か輝くものを捧げ持つようにしている。頭上には無限大のマーク。
「どうしたの」
「何でもない。‥‥それじゃあ桂、そろそろ」
「来てくれて楽しかった」
「‥‥巻き込んでしまってごめんなさい」
「よしてよ。サングラスを外すように葵は警告してくれたじゃない。今回の事はわたしの責任よ。おかげさまで昔喫煙で汚染した肺も新品になったことだし」
葵は小さく首を振り、そして無理矢理笑みを浮かべた。
「それじゃあ。元気で。静岡に呼んでね」
「約束するわ」
病室を出る。背後で扉が静かに閉ざされた。口元をきつく結ぶ。目に険しい色が宿った。
葵はサングラスをかけ、その表情を隠した。廊下の奥に設置されたモニタカメラをわずかに見上げ、葵は歩き出す。すれ違った看護婦が振り返ったが葵は気づかなかった。
葵は角を曲がり、そして反響する靴音だけが残った。