右足でペダルを踏み下ろし、左足は上げたまま身体を左へ傾ける。ブレーキレバーに手をかけてはいるが、減速はしない。ナビはアラームを鳴らさない。フリーギアが軽やかな音をたてた。角を曲がる。
ホテルヨコハマベイ裏手。丘の上の細い通り。道はすぐ先で下り坂となり、その向こうには青い横浜港と洋上に浮かぶ真白い綿雲が幾つか見える。真夏の日差し。影が濃い。
葵は右手をハンドルバーから離して腰に手をやり、ランバーバックの位置を直した。腰に回したベルトだけで固定されたバックで、身体にうまく固定されてない。身体が揺れるとバックが揺れる。バックが揺れるとベルトが腹に食い込んだ。あまり具合良くない。
タウンコミュータ仕様の細身の自転車はホテルの裏玄関前を通過した。葵はサングラス越しにロビーを眺める。黒塗りのコンチネンタルが2台停まり、運転手同士が談笑している。ロビーの奥はウィンドウグラスの反射が邪魔で良く見えない。
「HYB通過」
葵は呟く。
『209、確認した』イヤホンが答える。『調子良さそうだな』
「01、画は送れてる?」
『防犯部に送ったよ』
「坂を降りるわ」
『こないだみたいにコケるなよ』
「大きなお世話よ」
自転車は長い下り坂に入る。この坂を降りるのはこれが初めてではないが、葵は未だにアドレナリンを抑えられない。きつい傾斜で、ブレーキをかけ損ねればきれいに転ぶだろう。実際、葵は1回転している。坂の途中から出てきたトラックに驚き、右手を先に握ってしまった。右は前ブレーキだ。ナビはアラームを鳴らしていた。ただ、葵は無視した。そのツケだった。冒険はそれだけで懲りた。
坂を降り切る手前で軽くブレーキングを繰り返す。このモデルにABSなんてものはついてない。
降り切った先に16号が見えるが、直結はしていなかった。この道はいわゆる生活道路で、幹線道からは簡単に入り込めないようになっている。葵はペダルを漕ぐ脚に力を込め、加速しつつ跨道橋を渡った。16号は閑散としている。しかし2時間ほどすればラッシュがはじまるだろう。
跨道橋を渡りきる。歩道と車道はここで別れる。車道は16号につながり、歩道は根岸線沿いのペデストリアンデッキに接続する。葵は16号には降りず、ペデストリアンデッキに入った。このデッキは横浜駅から石川町まで伸びている。
16号を半ば覆う形で構築されたデッキ上は等間隔に植樹されている。本物の樹木だった。秋になると市のくたびれた清掃ユニットが自走して落ち葉かきをする光景を見ることができる。
葵は自転車を適当な木陰に止めた。木にたてかける。
自転車を降りると途端に息が上がった。これまで感じなかった体内の熱が急に強く意識される。汗が噴出す。暑い。休み無しで走りすぎた。頭に手をやると、ヘルメットが焼けて熱くなっていた。顎紐をはずし、ヘルメットを脱いだ。黒く硬いショートヘアが現れる。髪を荒っぽく指ですくと、熱が髪の間にこもっているのがわかった。
「休むわ」
返事は無いが、司令部が彼女の位置を抑えているのは確かだった。今の彼女は絶え間なくモニタされている。
葵は自転車のフレームに手を伸ばした。アンダーフレームには水筒を収めるクラシックなキャリアが取り付けられている。水筒にはミネラルウォーター。葵は軽く口をすすいでから、一口二口、水を飲んだ。樹木の根元に腰を下ろす。デッキを覆うレンガを模したタイルが陽の光を反射して輝いていた。光の川だ。16号の行き着く先には横浜の高層ビル街がやけに近く見えているが、それは錯覚だった。この辺りの建物とスケールが違うので遠近感が狂っている。
葵はタンクトップの胸元をつまんで風を送った。なんで自転車なんかで出てきたのだろう。ついついそう思う。時折、自転車を捨てて帰ってしまいたくなるときもある。特に横浜の、この辺りでの丘越えは傾斜がきつく、脚力だけで漕いで上りきるのはつらい。
それでも変わらず自転車で出てくるということは、つまり、懲りていないということだ。
葵は一人微笑む。
『01から209。コール』
サングラスの内側に地図が表示された。桜木町駅の向こう側。ヘルメットを被る。顎のストラップを引いた。
『傷害と思われる。オフシフトなのに済まないな。一番近いんだ』
「209、了解。完全なオフなんて期待してないわ。でもパックFしかないのよ」
『‥‥01から209。こちらではそれで構わないと判断している』
葵は立ち上がり自転車に跨った。水筒をキャリアに戻し、ペダルを踏み込む。ハンドルを大きく切り、向きを変えた。北へ。まぶしい照り返しを浴びて自転車をとばす。熱風を顔に感じた。
「209から01。状況を教えて。Aユニットは出しているの?」
『ネガティブ。簡易型携帯モニタの自動コールだけで、状況が不明。激しい衝撃を検知。その後移動していない』
「転んでモニタを落したのかも」
『もしかすると。だから一応確認してくれ。顧客に連絡を取ろうとしているが、つながらない』
「了解」
タイルを踏んで、タイヤが鳴った。走行音と呼べるのはそれくらいだった。よく手入れされた自転車は漕いでいる間、音を出さない。手入れをするのは葵だった。
高島町の駅舎がはっきりと見えてきた。
『01から209。次の角を右に。横羽線を越えろ』
「了解」
葵はペデストリアンデッキを下りるスロープに入った。スロープは直角に右に折れ、根岸線をくぐる。日陰になり、空気が冷えた。ナビのアラームは聞こえない。葵はブレーキをかけずにそのまま突っ込む。減光を検出してサングラスが薄くなる。狭い空間。壁にスプレーの殴り書き。その両側の壁に風切り音が反響した。一瞬陽光を浴びて、すぐに今度は横羽線の高架をくぐる。
『出口を左折。降りろ』
強い日差し。サングラスが濃くなる。葵は司令部からの指示通り左折し、ペデストリアンデッキに上るスロープではなく、一般道へ続くスロープを降りた。サングラスの内側に、薄くロードマップが表示される。目標の位置と葵の位置。
「目標を地図上に確認」
この辺りは公園施設が広がっている。都市プランナー達は、超高層のオフィス/フラットビルを広い領域に分散させ、その間の土地を全て公園施設として再設計した。周囲をぐるりと高層ビルに囲まれた開放空間。葵は車道を横切り、公園に入る。人工的に作られた小さな丘が散在し、見通しはあまりよくない。しかし、サングラスに投影される地図で目標までのコースは見通せた。
漕ぐ脚に力が入る。軽く腰を浮かせ、ストロークを大きく取る。腰が左右に振れた。ランダムに配置された樹木をスラロームし、一つの丘に回りこむ。
「209から01。目標を目視」
フルブレーキ。タイルの上でタイヤが滑った。
男が腫れ上がった顔で葵を見上げていた。ジーパンに半袖のシャツ。ベンチの脇に座り込んでいる。鼻から流れる血を抑えようともしていない。公園にはまばらに人影があったが、座り込んだ男に気づいてはいないようだった。遠すぎて解らないのか、そもそも関心がないのか。だから葵のような職業が成立するのかもしれないが。
「外傷あり。Aユニットの要あり」
『209、了解。A9を回す』
葵は降りると自転車をその場に寝かした。ランバーバックのバックルを外し、右手にぶらさげる。バックの中にはFパック――ファーストエイドキットが入っていた。止血と消毒ぐらいなら対応できる。シフト中なら胃洗浄キットやバイタルメーター、簡易酸素吸入器等も持ち運んでいるが、幸い、今は必要ない。
「〈ナイチンゲール〉です」葵は言った。「これから止血します。アンビュランスも呼びましたから」
男は笑ったようだった。腫れ上がった顔で、表情はよく読めない。葵は男の前にしゃがむと、ランバーバックを地面に置いた。バックを開き、中から消毒スプレー缶を取り出して軽く振る。
「わたしはパラメディック資格を持っています。資格章を見せる必要はありますか?」
男は首を振った。それで十分だった。葵はスプレーを顔に吹き付けてやる。男は顔をしかめた。次いでコラーゲンパッチを数枚取り出し、頬に貼り付ける。冷反応ジェルをパッチの上から塗りつけた。鼻の付け根にもジェルを直接塗る。その時、葵は男の鼻梁が折れていないことを確認した。
「どこか痛みはありますか?」
訊きながら葵は男の両肩、腕、手、大腿、脛、足首、わき腹を触診する。折れている感触はなかったが、わき腹に触れた時、男がうめいた。打ち身か、内出血をしているかもしれない。続いて頭部。外傷、裂傷なし。葵は確認内容を口に出している。その報告はAユニットに逐一流れている。そして、サングラスを通して撮られた映像も記録され、必要があれば搬送先の医療チームに提供される。
「トリアージはグリーン。――喧嘩でも?」
男は答えない。まぁ、いい。それは関係ない。
『A9から209。今どこにいる?』
Aユニット――アンビュランスからだった。
「ここにいるわ」
最後の問いに思わず答えている。質問の意味がわからない。
『A9から209。そちらのロケーションをロストしてる。今公園中央口まで来ている。今どこにいる?』
「209から01。A9は何を言っているの」
『209。言葉通りだ。我々は君を見失っている。エコーが出ているようなんだ。何かに反響したんだろう。5、6人はいるな。A9の目視位置まで出て、誘導してやってくれ』
「了解」
葵は男に微笑んだ。
「ここで待っていて下さい。アンビュランスをここに呼びますから。動かないで下さい」
男はうなずく。葵は自転車にロックすると公園中央口を見通せる位置まで走った。自転車とは違って、自分の走りはもどかしいくらいに遅い。
公園の目抜き通りまでくると、中央口が遠くに見えた。A9の車体が車止めの向こうに見える。
「209からA9。見えるわ。わたしが見える?」
『A9から209。確認した』
A9の車体が持ち上がった。タイヤのついた脚を伸ばしている。そして、公園入口にある車止めを跨ぐと、車体を下ろし、自走した。A9は公園敷地内の障害物を検出し、自律的に避けて走る。時速10キロ程度なのは、公園内であることを判断してのことだった。公道なら100キロは軽く超えて走れる。
A9が近づくと、葵は走って戻った。A9がその後を追う。
葵は自分の自転車の脇で立ち止まった。
『A9から209。目標はどこか』
A9が訊いた。葵は周囲を見回す。血痕は残っている。しかし、男の姿は消えていた。
「ロストした」
『01から209。なんだって?』
「いなくなった」
『209、目標の遺留物があれば、A9に指示して回収させろ』
「‥‥了解」
なぜ待てなかったのだろう。葵は思った。傍らではA9が車体を開いて作業アームを伸ばしていた。