2.けいこく

「‥‥世間的には夏季長期休暇が控えている。それに備えて我々もナイトシフトに重点を置くことになる。パックFはもちろん、加えてアルコール分解酵素剤やドラッグ解毒剤などの薬品類の補充に注意すること」
 部屋の奥で劉室長が言った。広い部屋だった。日本JCIS横浜支社中区分室所属の〈ナイチンゲール〉サービス要員16人全員が収まっていた。窓にはブラインドが下りて、外は見えない。外からも見えない。
「さて、保安情報だ。全員、手元の端末に注目」
 葵は椅子の肘掛に取り付けられた端末に眼を落した。
「‥‥ここ数日で、警戒目標がうちの管内に登場したことが解った」
 右隣に座る桂が葵を小突いた。端末に二日前、葵が写したホテルヨコハマベイの裏玄関が映っていた。目視ではガラスの反射でロビーは見えなかったが、おそらく防犯部で処理したのだろう、画像ではコントラストが低いものの、ロビーの中が見えていた。
「この人物だ」
 画像が拡大された。ダークスーツを着込み、肩越しに振り返って隣の男に笑いかけている。背は高い。顎鬚をはやしている。眼は穏やかだが。
「ICIC(国際犯罪情報センター)の情報によれば、彼はモハメド・アシフ・カーン。パキスタン系アメリカ人。先月イスタンブールで確認されたのが最後で、この画が最新というわけだ」
 榊木が手を挙げた。
「先月イスタンブールで、その前は?」
「ブリュッセル。‥‥たぶん、これが聞きたいんだろうが、いわゆる〈ノマド〉だ」
 端末の画像が組織図に変わった。
「米国本社のデータベース情報だ。ハジャブが属しているクランはC47というキーがついている。構成員は27名」
「イスタンブールからイラク経由で?」
 誰かが呟いた。
「連中がどこから来たのかなんてことはどうでもいい。問題は我々の庭にいるということで、この招かれざる客が、クライアントにちょっかいを出した場合に備えて注意しなければならないということだ」
「例によって逮捕・拘禁は?」
「彼らはまだ国内法を犯していない。たぶんな。今は単なるパッセンジャーだ。彼らの犯罪を未然に防いだ場合、警察の出る幕は無い。忘れたか? 我々が失敗すれば、警察の出番になる」
「監視は?」
 槝緒が手を挙げた。
「横浜支社の防犯部が担当する。我々が直接連携を取るのは、防犯部ということになる」
「例によって我々の手は借りないと?」
「お前達はそんなに暇なのか? 〈ナイチンゲール〉の仕事は監視業務じゃないだろう。今まで通りの仕事を続ければいい。ただ、C47の連中の顔は覚えておくように。見かけても監視行動に移ったりしないように。司令部に一報いれればいい。以上だ」
 ミーティングはそれで終わりだった。全員が立ち上がった。桂が葵を呼び止めた。
「いろいろあったわね」
「まったく」
「消えたお客さんのことは」
「さっぱり」
「あの時間、柊のいたあたりは完全に見えなかったらしいわ」
 葵は友人の顔をまじまじと見つめた。
「どういうこと?」
「MM21地区付近がブラックアウトしたのよ。司令部は大騒ぎだったって」
「エコーどころじゃなかったわけ」
 退室しようとしていた同僚が数人、微笑みながら振り向いた。訳知り顔だった。
「そういうこと‥‥。どうりで、根掘り葉掘り」
「例によって聞き出すだけで、教えてはくれなかったのね」
「例によってね」
 二人は連れ立って部屋を出た。廊下の片側は全面窓になっていて、関内から桜木町にかけての市街越しにランドマークタワーや、クィーンズスクエア、少し左手に離れて横浜駅周辺の高層ビル群が見えていた。
「‥‥やっぱりダミーだったんでしょうね」
 葵は呟く。
「最近、まだ多くはないけど、数は増えているしね。逃げたところをみると、まず、間違いないんじゃない? 葵のシグナルをダビングして、流した」
「逃げる隙を作るため、でしょうね。でも、なぜ逃げたのか解らないわ」
 桂は訝しげな視線を葵に送る。
「基本料金を払っていなくても、その場で料金を払えば問題はない。医療保険も利く――もし入っていればだけど。これまでダミーを使われたケースも、病院に運ばれてから発覚して払わされるのが普通で、アンビュランスの到着前に逃げ出すようなケースはまだ聞いたことがない。いろいろ揉めはするけどね」
「入院する必要はないと思ったのかも」
「確かにね。確かに。骨が折れてはいないようだったから、自力でなんとかなると判断したのかも。でも、あの程度のファーストエイドで済ますようならコールする必要もないはず」
「‥‥なんにしても、カスタマーサービス部がシグナルの顧客と連絡を取るからダミーかどうかは決着がつくわ」
「別にそれが決着ついても」
「何も解らないよりマシでしょ。忘れたら? 明日はオフシフトでしょう。伊勢崎町に行かない? 買い物につきあってよ」
「いいわよ」

'Aoi'
Satoshi Saitou
Create : 2001.01.11
Publish: 2010.07.09
Edition: 2
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