榊は隣に水口を乗せ、本牧のYSP(横浜特別行政区)に車で向かった。YSPの南にある、李という紫水系列社員の自宅が目的地だった。NTN保安部長である橿原からの紹介だった。
水口は不機嫌だった。仕事の内容は別に問題ないわ、と彼女はフラットを出る前に言った。寄りにもよってNTNの紹介というのが気に食わないのよ。
仕事は仕事だ。榊は答えた。第一、俺達はNTNに首根っこを押さえられている。
榊だってそうした現実は不愉快だったが、不愉快だから現実が変わるわけでもない。また干されるのは御免だった。まずは食わねばならない。榊はちらりと水口を見た。相変わらずむくれている。
「おい、頼むよ。もうすぐ先方に着く。愛想良くしてくれよ」
「だって、まるで使い走りじゃないの」
「俺だって不愉快だけど、仕方ないだろう。首根っこ押さえられているんだから」
「暗号をばらしちゃえば良かったのに」
榊はぎくりとした。水口の言う暗号とは、NTN交換機へのアクセスキーだった。NTNを壊滅できる唯一の武器。今は暗号化され、ネットワーク中に散らばっている。榊達や非合法化されたネットワークコミュニティにNTNの手が及んだとき、その暗号は解かれる。それはNTNの牙から榊達を守る楯だった。
「あれは最後の切り札だ。解ってるだろう。‥‥中華奢るからさ」
「いー、だ」水口は答えた。「もうその手には乗りませんよーだ。‥‥また辛いもの食べさせるつもりでしょう」
「何度も食べればそのうち馴れるって‥‥いや、点心に飲茶でもいい。月餅を皿に山盛りでもいいからさ。頼むよ」
「たまにはわたしが店を選んでもいいでしょう」
「もちろん」
うふふふふ、と水口はわざとらしく笑い声を出した。どうやらハメられたらしい。榊は思った。車はYSPに入る。
YSPは本牧から南へ向かって伸びる系列企業本社員達のための街だった。榊や水口のような外部フリーランスには縁の無い街だ。白いセラミック板に覆われた集合住宅がその連絡通路を複雑に交差させている。ところどことに散在する空中庭園では緑の色が濃かった。
榊は助手席前のフロントガラスに浮かび上がったロードマップに従って車を目的地に向かわせる。
目的の家は本牧の丘の斜面を覆う集合住宅の中にあった。いい所だ。榊は思った。横浜湾を一望できるだろう。高価そうだ。
「ハッキング、ですか」榊は李夫人に言った。「ずいぶん穏やかな話ではありませんが、なぜYSP/IP(YSP情報犯罪専門警察)に持ち込まず、NTNの方へ? NTNと保安契約を結んでいるのではないのですよね」
李夫人は困ったような笑みを浮かべた。チャイナドレスのスリットから白い脚がのぞいている。襟元から〈耳〉のワイヤがのびていた。
「それが‥‥はっきりしないのです。それで橿原様に御相談したら、あなた方を紹介されたのです」
橿原め‥‥そういうことか。榊は苦々しく思った。正式に引き受けることもできず、さりとて断るわけにもいかず、というわけだ。李とNTNの関係は何だ?
「はっきりしないというのは‥‥」黙り込んだ榊に替わって水口が口を開いた。「具体的には何ですか」
「朱花はそんなことないって言い張るのですが‥‥」
水口の微笑みがひきつる。はっきりしないのはこの奥さんの頭なんじゃないの?
もちろんそんなこと口にはしない。
「朱花というのは、どなたですか」
「うちの娘です。今年中等過程に進みまして」
「それは良かったですね」水口は愛想良く微笑む。「それで、お嬢様とどういう関係が」
「ええ‥‥その、きっかけはNTNからの通信明細と、うちの方にのこった記録に食い違いが出ているということでした」
「受信ですか? 発信に?」
榊が訊いた。
「受信です。明細の記録の方が多いのです。なんだか気味が悪くて。転送に使われたんだと言う人もいて‥‥」
「そうおっしゃったのはNTNですか?」
「いいえ、お隣りの方ですの」
「なるほど」
榊はうなずいた。そうだろうな。
「それで、お嬢様とどういう関係が」
「NTNの方に残った明細はでたらめなんですよ。かろうじてうちにかかってきたことが解るだけで。でも、一つだけ誰宛てにかかってきたのかが解る記録がありまして、それが朱花宛てだったんです」
「お嬢様が使われているのは通話用ですか」
「いいえ。もちろんパッドです」
李夫人は微笑んだ。
「パッドには記録が残るはずですよね」
水口が訊いた。
「ええ‥‥でも、朱花が言うには不審な記録は無いと言うんです」
水口は榊を見た。榊は景徳鎮の湯飲みを持ち上げ、お茶をすすった。いい香りだった。本物か? それとも木更津の生化学プラント製か。
李夫人が榊を見つめていた。
「失礼」榊は湯飲みを置いた。「とりあえず、お宅の記録とお嬢さんのパッドの記録を突き合わせてみる必要がありそうですね。お嬢さんはいつ頃帰られますか」
「あと一時間もすれば」
「ではお嬢さんの許可をいただいてからパッドの方をあたりましょう。待たせてもらって構いませんか」
「ええ。結構です。‥‥では、わたしの方は所用がありますので」
李夫人は部屋を出ていこうとした。
「ああ、その前に一つだけ」榊は夫人を呼び止めた。「お嬢さんの交友関係に不審なものは」
夫人は微笑んだ。
「計画通り管理されているはずです」
「どうも」
夫人は部屋を出ていった。
榊は茶をすすった。どうやら本物らしい。水口は居心地悪くソファの上で座り直した。
高い天井、大きな窓。白いバルコニの向こうには横浜湾が見える。緑濃い観葉植物、壁にはサトウの版画。レースのカーテンは優雅なたるみをもって束ねられている。
「こんな部屋‥‥いくらぐらいするのかしら」
「そうだな。‥‥お前の魂ぐらいの値段はするさ。魂を系列に売るか?」
「いい冗談じゃないわ」
「すまん」
水口はこわごわと湯飲みを持ち上げた。
「やっかいそうね」
「いや、そうでもないと思うよ」
「NTNの保安部が担当すべきなんじゃないの? 回線詐欺でしょう」
榊は水口を見て微笑みを浮かべた。
「橿原にはそうできない理由があるんだろう。‥‥つまんないことに気をまわすな。娘に会えば解決するだろう」
水口は怪訝そうに榊を見つめた。