■いやもう懐かしい。ハードカバーを読んだのは高校生の頃。その時は単なる、喩えれば『プラネテス』のようなコスモノーツものの冒険譚として読んでいたのですが、今になって読み返してみれば、これに収められたほぼ全ての作品がマン・マシン・インターフェースにまつわる物語だったことに気がつきます。ただ、さすがに描かれるテクノロジーそのものは古い。
マン・マシン・インターフェースっていうか、もっとざっくりテクノロジーと人間の関係を題材に、宇宙開発の初期から成熟期にかけて活躍したピクルスのエピソードとしてまとめているという格好。宇宙開発の現場では人間はテクノロジーに囲まれなければそもそも生きていけないわけだから、料理はしやすい。
プログラマの世界に「プログラムはプログラマの意図ではなく、コーディングに従って動く」という格言というか、言い回しというのがあります。人間側の意図に沿わない動作については、一般的に「バグ」とか言われたりもするわけですが、それに対して「バグではなくて仕様です」という言い回しもあります。こうした対立する呼び方が生じうる理由は、どのようなプログラムであっても、人間から独立して動作する自律系として完結しており、その動作がバグであるか、仕様であるかは人間側の解釈の問題だからということに尽きるでしょう。つまり、人間がいない世界においてはバグか仕様かという問題は存在しない(まあ人間がいなければ、仕様作成者もプログラマもいないので、そもそもプログラムが走らないという話はありますが)。
このバグか仕様かという解釈の問題は別にプログラムに限らない。例えば自動車の操舵機構にだって同じ問題は潜んでいて、さすがに「バグ」とは呼ばれずに、レスポンスが悪いとか追随性が低いとか違った表現はされますが、本質的には変わりません。人間が意図した通りに動くか、動かないか、という判断基準はヒトが作りしモノ全てに共通して適用されていることでしょう。その判断基準がなされる場においてはメカニズムとヒトとの接点が必ず存在していて、『ピクルス物語』はその接点をバリエーション展開している短編集だという表現もできると思います。
例えば、と書くとネタが割れてしまう作品もあるので事細かには書けないのですが、シミュレーション環境が人間の知覚を全て隠蔽してしまう状況であったり、メカニズムの信頼性が低いことを理解しつつもなおそれに頼らなければならない状況であったり、あるいは、メカニズムの信頼性も性能も高いが、それを人間が使いこなせない状況であったり。
ただ、登場するコンピューターというか、人工知性体が話立てにとって、やや都合のいい作りになっているかなあ、といったようなことは感じます。それと、どうやらアナログ回路から構成されているような雰囲気もあって、そこはさすがに古めかしい空気があります。
しかしテクノロジーが古めかしいから、題材になっている問題が今は起こりえないかというと、そんなことはなく、問題の本質は未だに残っていて、それどころか時折事故もおきています。そういう点では「事故学」という言葉も生まれている昨今、かつてSF作家がある意味得意としてきた「テクノロジーに頼りすぎることへの危険」というテーマはようやくコンテンポラリーになものになってきたのかもしれません。
もちろん、今、そのテーマそのものは陳腐になってしまっているのですが、『ピクルス物語』にアドバンテージがあると思うのは、作り出される危機そのものがよく練られていて、本質的に同じタイプの事故は未だ起こりうるもので、その事故をシステム的に確実に防ぐ手立てはできていないという点だと思います。