『接続された女』紹介文

聞け、ゾンビー。オレを信じろ。

「接続された女」より

 物語はこうして紡ぎ出される。どこから? ――『誰から』だ。それはティプトリーという名を持つ作家から。ジェイムズ・ティプトリー・Jr。この名を覚えておいて損はない。ついでに言っておけば、「接続された女」は1973年の作品。その時オタクは何歳だ? だが、保証する。昨日書かれたばかりと言っても通用する。

 P・バークというブスがいた。年からいけばうら若き乙女。だが、誰もそんなことを気にしない。見向きもされない。そういう女。
 世をはかなんだ彼女は自殺を図るが、しかしGTXなる産業-メディア複合企業のとあるプロジェクトに救われる。彼女は社会的には死亡したことにされ、「デルフィ」なるメディアの女神(いや、「デルフィ」なら巫女か)として世に現れる。整形なんかじゃない。P・バークとしての肉体はそのまま、しかし精神のみが「デルフィ」なる完全無欠な乙女の身体に入りこむ。オカルトじゃない。工学的にP・バークはデルフィに「接続された」だけ。

しかし、P・バークは自分が生きているのを知らない。生きているのは、その肉体のぬくもりのすみずみまでを生きているのは、デルフィなんだ。

「接続された女」より

 そう、「接続された女」はSFだ。最初の数行を読めば、自分が見知らぬ世界に放りこまれたことに気がつく。案内人はいやに横柄だ。そこは過去から現在にかけて未だ存在したことのない世界――将来となれば微妙だが、しかしそんなことは重要ではない。そいつは眼くらましのペルソナだ。仮面の下には現実を見つめる醒めた目がある。

人生は、あなたをさまざまなものの中にポンとほうりこむ――ふしぎな身振りをする見知らぬ人たち、不可解な愛撫、脅迫、なんのしるしもついてなくて、それを押せば予想もしない結果が出てくるボタン、コード化された、いかにも重要らしく聞こえるたわごと‥‥

「作者自身のエッセイより

 SFの欠点はその虚構性が強いことだ。あまりにも虚構性が強いので、問題設定そのものがナンセンスになりかねない。だが、虚構の強さは武器でもある。直接表現したのでは退屈になったり、冗長になったり、説教臭くなったり、複雑になったりするような題材でも、単純化し、退屈という埃を払い、フレンドリーで簡潔に無駄を省いて語ることができる。SFのうち何割かは表面的な物語とは別の層で異なるメッセージを持っている。

 ティプトリーは紡ぎ出した物語に何を織り込んだのだろうか。

 P・バーク/デルフィに戻ろう。今や彼女はメディアの寵児。誰もが彼女を知っている。誰もが彼女を愛している。デルフィの名を口にするとき、その口元がほころばないことはない。すこし前まで存在すら認識されていなかったような娘がだ。

デルフィの出番が放送に乗り、フィードバックが現れはじめた直後に興奮がおっぱじまる。思ったとおりだって? もちろんさ。センセーション! だれかにいわせりゃ、視聴者の自己同一化だ。

「接続された女」より

 ここまで書いてしまえばネタは割れたと思うだろう。「ああ、つまりシンデレラストーリーってわけだ」――ハズレ。そんなつまんない作品を紹介したって仕方ない。そのテの願望充足ものなら他にもゴマンとある。
 ここに書いたのはようやく半分。降り返し点がなんとか見えた頃ってとこだ。こいつは言っておかなければならない。書いた内容だって、プールに落とされた一滴の砂糖水ほどの薄さだ。

‥‥「エイン博士の最後の飛行」を例にとってみよう‥‥。あのいまいましい短篇ぜんたいが、さかさまに物語られている‥‥。これはティプトリー式基本的叙述本能の完全な一例だ。物語をその結末から、そしてできることなら、暗い一日の地下五千フィートからはじめ、そして、そのことを教えるな

作者自身のエッセイより

 このことは「接続された女」についても言える。ティプトリーが自作について語ったこの本能なるもの、普通小説ではあまりお目にかかれないこのスタンスは読み手を幻惑する効果を持つ。困惑、かもしれない。
 こいつは危険な方法だ。一歩間違えれば独り善がりとして見捨てられかねない。読み手の鼻づらつかんで引きまわすような作品になるからだ。やり過ぎれば読むのを放棄されるし、不充分では退屈だ。ティプトリーの作品はどれもそうした緊張の下にある。

 地下五千フィートでないにせよ、「接続された女」も見慣れぬ世界からはじまる。細部を理解できないかもしれない。だが、コツはある。簡単だ。理解しようとするな――「それはすりーんぐるで、とてもぶれぐす」と書いてあったら、それはすりーんぐるでぶれぐすなんだ。
 これは風邪薬の効用書きのようなもんだ。「イブプロフェン」の何たるかを知っているのはいるかい? ――そんなことだろうと思った。だが、知らなくたって薬は効く。重要なのはそいつが風邪薬だと解かることだ。それとおなじ。理解できなくたって作品のコアを見逃す心配は無い。コアはすりーんぐるでぶれぐすではない。そこらへんを勘違いした下手なSFもあるが、ティプトリーは下手な作家ではない

 コアはどこか? ディテールに宿ってはいない(ああ、もちろん、神は宿っているかもしれない)。宿ってないからこそ感じることができる。コアは偏在している。読め。感じろ。理屈をこねるのはその後だ。

だから信じろよ、ゾンビ-。オレが成長というときは、まちがいなく成長の意味。最高の評価さ。

「接続された女」より

 ただし、絶対、まえがきも解説も先に読むな。

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作成:1998.11.22
公開:2010.05.22

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