■先日横トリの話で回を潰したわけですが、あの回は幾つかある会場のうち新港ピアだけで終わってしまいました。会場をぐるぐるっと回っている時から強く印象に残るものというのは正直それほど多くはなかったのですが、書いているうちにあれもこれもと思い出して盛り込んでしまった。美術批評を書けるほどの軸はないので、感想というか印象レベルなわけですが、続きです。今度は別の会場ということでNYK。
BankartNYKの'NYK'は「日本郵船株式会社」の略らしく、神奈川県警ビルの隣にある日本郵船の旧歴史資料館をBankartが借りる形でギャラリーというか、多目的な展示会場として運用している。らしい。外観からして倉庫にしか見えないし、よりによって歴史資料館の裏手にあるし、当時は廃材の山の横を通り抜けなければならなかったしで、最初に訪れた時は入り口をくぐってチケットをもらうまで本当に訪ね当てたのか不安になるほどだった。おまけに自分は客層としてはかなりレアらしく、格好いいアンチャンからいぶかしげに見られるのもなんか嫌だったかも。お嬢さん方からそういう目線は貰わなかったですけどね。
そんなことはともかく。
なにより印象に強いのは1Fのヘルマン・ニッチュのパフォーマンス記録映像。何かの豊穣祭とキリストの受難劇をごっちゃにしているんだろうなあというのは解るんですが、その生贄になっているのがあんまり若くもなさそうな男女で、ぱっと見、人間そのものを解体しているように見える。
落ち着いて観れば、人間の身代わりに牛が解体されていることが解る。ご丁寧に腹を切り開いた牛を人間の上に被せて、見立てをやっているんですね。
いい感じのイカレ具合なんですが、ビデオの中ではそのパフォーマンスを桟敷席からペリエか何か飲みながら見下ろせる観客席なんかも写っていて、それはそれでいい神経しているかも。
記録映像もあって、それを観ると1970頃に捕まったとかなんとかあったんですが、30年以上こんなことやってんのかい。
現地にいて臭気や熱気を感じていたら、感覚的にはまた違ったのだろうとは思うですが、映像で観るかぎりでは平気で観れてしまう。最初は言ってしまえば悪趣味だなあという印象だったのですが、ずっと観ているうちに宗教的なモチーフが見えてきて、ああいう血なまぐさいこともやっていたのかなあなどと思い始める。ただ、さらに見ていると、なんか違和感が出てくる。罪人への刑罰的行為としてぐちょぐちょなことをやっているわけではなくて、何かの祝祭をなぞっているらしいということは伝わってくるのだけど、でも例えば豊穣祭なり収穫祭なりであれば、それは感謝をどこかで表現するのではないかと思う。テーブルに並べられた牛のモツに水とミルクと蜂蜜を注ぐシーンがあって、それはキリスト教のモチーフなのかもとは思ったのだけど、それにしては、やっぱり何か感謝している風には見えなくて、何かの真似事をしているように見えてしまう。何となくは解る、だけど根本的に伝わっていないコンテクストが残されているような。
それともやっぱりショッキングな映像だから、自分の中で何かフィルタリングされてしまっていたのだろうか。
ショッキングということなら3Fのポール・マッカーシーのカリビアン・パイレーツ・パーティー(とかいう題だったように思う)も比較的そんな内容。もっとも、こちらは宗教的な色彩はまるでなくて、ただひたすら猥雑さで圧倒される。猥雑っていうか、普段ならケガレとしてあまり扱わないものだけを拾い集めたような感じ。足を斧でぶった切るわ、糞便に見立てた(さすがにそこは解るように撮っている(のだと思う))ハーシーチョコレートをあたり構わず塗りたくるは、セクシャルなフィルムはあるは(しかし、思わせぶりだが、慎み深く(深いのか?)行為そのものは撮られていない)で、まあてんこ盛り。たいてい映像はループになっているんですが、延々観ていてもそのループサイクルが解らなかった。観ている方の忍耐の問題かもしれませんが。
普段隠しているものを前面に押し立てた世界がわあわあと展開されて、やっぱりそこには違う時間が流れている。もっとも、そんな上品な言葉で説明した時点で、作品の説明にはなり得ないという作品なんですが。
かと思えば2Fのエントランスに入ってすぐの小部屋にあるニキル・チョプラのメモリー・ドローイングがとても静かな空間を持っていて沁みる。小部屋に小物を配置することで誰かの半生をバーチャルに俯瞰してみせるコンセプトは珍しいものではないと思うのですけど、それでも端整に見せてくれているように思えて、好きな部屋でした。ウェブで絡み捕られた小物というのはどこかで見たことがあるように思ったのですが、先日国立国際美術館で見た塩田千春展のベッドがそういう造りを持っていました。あちらはずっと悪夢めいていましたが。
2Fでは他にクロード・ワンプラーの「無題の彫刻」が人を喰った感じで面白かったです。物理的には台座が置いてあるだけで、要するに「裸の王様」的な作品だと初日は思ったのですが、二日目にはその見えない彫刻をスケッチしている人がいて、それが織り込み済みのパフォーマンスなのか、気の効いたことを思いついた観客が参加したのかは解らなかったのですが、「無題の彫刻」の意味がわかりやすくなったのは確かだと思います。解りやす過ぎてちょっと興ざめだったかもしれませんけど。
人を喰った系だと3Fにはロドニー・グラハムのポテトでドラを鳴らすパフォーマンスのビデオ展示(「ドラにポテトを投げ当てる」)があって微妙な空気を醸し出していました。淡々と何の熱意を見せることもなくドラ目掛けて座った状態でポテトを投げて重々しい音を鳴らすだけという、本当にそれだけなんですが、これが結構シュールで笑える。椅子に腰掛けた状態で、椅子には背もたれがあるから、投げるときに身体を十分ひねることが難しく、肩を引かない状態で肘から先だけで投げなければならないはずですが、それでも結構あたっていました。ごわわわああんと。ドラがなる。ごわわわああん。
ばかばかしいんですけど、なんでこんなことやってんの? というコンテクトが欠落しているので、最初は当惑してしまう。やっぱり、映像を前にすると、意味を求めてしまうところがあって、そもそも「意味なんてない」というのは思いつかない。無意味なものがあれば、そこに意味を押し込んでむりやり整合性を取ろうとしてしまう。
いや、もしかしたらドラにポテトを当てる行為には意味があるのかもしれない。例えばそれは「生命と宇宙と万物に関する究極の答え」に関係しているのかもしれない。ごわわわわあああん。